帝国興信所が作成した「鈴木商店調査書」シリーズ⑧「日本金属株式会社」(調査書P48~54)をご紹介します。
2024.10.19.
「鈴木商店調査書」をご紹介するシリーズの8回目です。
大正4(1915)年の夏、鈴木商店はロシア政府の内命を受けたブリーネル商会から砲弾500万発を受注しました。しかし、弾丸の材料である亜鉛、銅、錫のような非鉄金属は当時どこの国でも輸出禁止品目となっていたため、入手は極めて困難でした。
そこで、鈴木商店は八方調査した結果、鉛はブリーネル商会の関係先であるロシア・テチヘの鉱山の貯鉱を購入することとなり、同年に買収した岡山県児島郡日比町の銅製錬所に鉛の製錬所を設置することとを決定し、建設の責任者として神戸製鋼所入社5年目の少壮技師・浅田長平(後・神戸製鋼所第6代、第8代社長)が抜擢・派遣されました。(左の写真は大正中期の日比製錬所です)
続いて日比製錬所は大規模な銅製錬工場を建設し、鉛とあわせて銅の製錬を開始しました。このため、高さ約300尺(約90メートル)の製鉛、製銅共通の大煙突(通称「太郎煙突」、左下の写真)を建設しました。
銅、亜鉛については支那の釐銭(中国の貨幣と思われますが詳細は不明)が銅55%、亜鉛35%、アンチモニー鉛10%で構成されていることが判明したのでこれを調達し、日比製錬所に加えて彦島(山口県豊浦郡彦島村)、大里(福岡県企救郡大里町)、徳山(山口県都濃郡徳山町)に直営の製錬所を建設し製錬を行いました。
弾体は神戸製鋼所に弾丸工場を新設し、各製錬所から送られてくる材料で製造する計画でした。(右上の写真は、当時の彦島製錬所です)
大正5(1916)年、鈴木商店はこれらの製錬所を発展させて日本金属(株)を設立し、同社の日比製錬所、彦島製錬所、徳山製錬所、大里製錬所(*)として本格的に非鉄金属製錬事業に乗り出しました。
(*)大里製錬所は彦島製錬所が軌道に乗った後に廃止されました。
ところが、大正6(1917)年に突然ロシア革命が起こり、帝政ロシアが崩壊したため、ブリーネル商会と結んでいた受注契約は解消を余儀なくされました。
大量に残された材料(地金)の販売について検討した結果、艦船主汽機および産業諸機械の国産化・発展に伴い需要が高まっていたこと、地金そのものより加工して販売した方が得策であることから大正6(1917)年7月、神戸製鋼所は門司市小森江に1万余坪の土地を買収して伸銅工場を新設して銅、真鍮の管、棒、特殊鋼などの製造を開始し、非鉄金属メーカーとしての道のりを歩み出しました。
その後紆余曲折を経て、現在日比製錬所は日比製煉(株)に、彦島製錬所は彦島製錬(株)に、徳山製錬所は日本精蝋(株)徳山工場となっています。詳しくは下記関連リンクの企業特集、地域特集をご覧下さい。
なお、調査書の「会社の沿革 現況」には、次のように記されています。
「同社(日本金属)は鈴木商店の製錬、冶金事業を統括するもので、神戸製鋼所とともに同店の主要事業の一つである。第一次世界大戦突発後、銅、亜鉛が輻輳(一カ所に集中すること)し価格が著しく暴騰すると、ますます事業の拡張、生産額の増加をはかり大正5年1月、資本金100万円払込済の株式会社(日本金属)を組織し、左記各所に製錬所および鉱山を所有し、進んで合金事業をも経営する計画であり、現在福岡県大里に工場設置を準備中である。」
「亜鉛は彦島精錬所で、銅は日比製錬所で、神戸および大里製錬所は主として支那厘銭銅を製錬したが、厘銭は既に中止した。徳山製錬所は亜鉛原鉱の焚焼(焼くこと)所である。」(上の写真は、鈴木商店時代の徳山製錬所の境界杭と山頂・中腹の煙突です)