帝国興信所が作成した「鈴木商店調査書」シリーズ⑩「株式会社大里製粉所」(調査書P57~61)をご紹介します。
2024.12.3.
「鈴木商店調査書」をご紹介するシリーズの10回目です。
明治43(1910)年、鈴木商店は門司市に隣接する福岡県企救郡大里町への製粉会社進出計画を発表すると、直ちに所有する大里関税仮置場の隣接地8,000坪に大規模工場を建設し翌明治44(1911)年、大里製粉所(左の写真)を設立し、工場責任者にかつて札幌製粉の運営を任されていた製粉技師"ドラゴン・ヨネダ" こと米田龍平を迎えて操業を開始しました。
大里製粉所は米田の指導の下で「赤ダイヤ」「緑ダイヤ」の商標で製品を売出し、たちまち北九州から中国地方にまで販路を伸ばすとともに、アメリカ・ノーダイク社製の最新鋭機を備えた近代的製粉工場へと変貌を遂げました。
大正4(1915)年4月、大里製粉所は静電気ショートに起因する大火災に見舞われ、工場と倉庫が全焼するという不運に見舞われましたが、復旧工事を急ぎ翌大正5(1916)年には操業を再開しました。
操業再開後の大里製粉所は米田の指導の下でマカロニ製造工場を建設し、当時としては非常に珍しい国産マカロニ(DIAMOND MACARONI)を売出すなど加工分野にも進出し、積極的な経営が行われました。(上の写真は、大里製粉所前の米田龍平です [運転席の人物])
その後の大正8(1919)年~大正9(1920)年当時は第一次世界大戦終結後の反動不況が始まり、製粉各社とも過剰設備を抱えて業績は悪化の一途をたどるという多難な時期でしたが、そんな中、日本製粉(現・ニップン)は大型合併による競争力の強化を強く志向し、東洋製粉、大里製粉所、札幌製粉との合併を目指しました。
日本製粉が大里製粉所との合併を目指したのは、同社が創業以来相当の成績をあげてきたこと、アメリカ・ノーダイク社製の最新鋭機をはじめ設備が完備しており、鉄道の便、築港関係も申し分がなく、他に得難い工場であったことが最大の理由でしたが、同時に同社では米田龍平という当時としてはまれに見る製粉技術を有する国際経験豊かな工場責任者が指導に当たっており、優れた製品を産み出していたことも理由の一つでした。
日本製粉は当時優秀な新進の製粉会社であった東洋製粉から合併について承諾を得ると、続いて鈴木商店の窪田駒吉を介して、鈴木商店系列の大里製粉所および札幌製粉との合併を目指し大正9(1920)年3月1日、大里製粉所と日本製粉の対等合併が実現しました。
大里製粉所と日本製粉の合併は、一旦大里製粉所と札幌製粉が合併した後に日本製粉がこれを吸収する形がとられました。(左の写真は、日本製粉門司工場 [旧・大里製粉所]です)
この大里製粉所・札幌製粉と日本製粉の合併により、鈴木商店は日本製粉向けの原料供給と製品の一手販売権を手中に収めました。なお、この一連の合併を経て、鈴木商店からは谷治之助、窪田駒吉、志水寅次郎の3名が日本製粉の取締役に就任し、日本製粉への経営関与を深めていきました。
なお、調査書の「会社の沿革 現況」には、次にように記されています。
「明治44年、(大里製粉所は)資本60万円の株式会社に組織を変更し益々発展に務めて来たが、わが国の製粉業界は米国品との競争のためずっと不振の状態にあったが、第一次世界大戦突発以降、米国は東洋を顧みる余裕がなくなり、かつロシアおよびイギリス、フランス、イタリア等の注文が相当輻輳(一カ所に集中すること)した結果、空前の活躍を示し、特に中国方面の需要激増はますます市価の暴騰を招き、現在製粉業界はほとんど投機化して来ている。」
また、大正4(1915)年4月に起きた大火災については次にように記されています。
「大里製粉所も世情に伴い好成績を示してきたが、たまたま大正4年4月、階下電気室より失火し、工場、倉庫が全て焼失し、火災保険金で補填したが、なお損害が約12万余円に達したけれども、営業初年度より繰越利益金により補填し、直に復旧工事に着手し、‥‥大正5年6月に工場の竣工、最新式の機械の据付が終わり、7月から操業を開始し、一昼夜1,500バーレル、6,000袋の生産を行っている。」
金子直吉の弟・楠馬の婿養子で当時大里製粉所の原料倉庫係であった金子三次郎は、後に回顧録「随心録」の中でこの大火災の切迫した様子について詳細に記していますので、下記の関連資料よりご覧下さい。