帝国興信所が作成した「鈴木商店調査書」シリーズ⑪「株式会社日本商業」(調査書P61~67)をご紹介します。
2025.1.10.
「鈴木商店調査書」をご紹介するシリーズの11回目です。
日本商業は日商(現・双日)の出発点とも言える会社ですが、その創立は明治42(1909)年2月とかなり古く、設立発起人にはエミル・ポップ、(二代目)鈴木岩治郎、藤田助七ほか鈴木商店の関係者が名を連ねました。
エミル・ポップは外国人居留地のラスペ商会で貿易に従事していた時から、当時鈴木商店の丁稚として働き樟脳、薄荷などの注文を取りに外国商館に通っていた金子直吉とは関係があったと思われます。
明治40年頃、ラスペ商会の業況が振るわず解散することとなったため、ポップは金子と相談し、金子は貿易部門を強化するため、ポップらとともに今まで鈴木商店が取扱っていなかった綿花、綿糸布、羊毛、紙、銅などの商品分野に進出することを決意し明治42(1909)年2月、日本商業を設立しました。
設立時の資本金の大半は鈴木商店が出資し、専務取締役にはポップが、取締役には鈴木商店から藤田助七、増田斜、森衆郎らが就任し(社長は空席)、ラスペ商会の日本人番頭、井田亦吉を加えて、外人、邦人の共同経営として発足しました。(上の画像は、明治42年2月28日に開催された日本商業の第一回取締役会議事録です)
明治43(1910)年11月、ポップが日本商業を退職したことから同社に対する鈴木商店の支配力は100%となりました。
大正8(1919)年、同社は資本金を50万円から一挙に500万円に増資し同年9月、(二代目)鈴木岩治郎が社長に就任し大正13(1924)年2月には鈴木商店本店総支配人で株式会社鈴木商店(大正12年3月、鈴木商店の貿易商社部門を分離して設立)の取締役でもあった永井幸太郎(後・日商の第二代社長)が専務取締役として同社へ出向し、順調な業績をあげていきました。
鈴木商店の経営破綻からわずか300日余りの昭和3(1928)年2月8日、高畑誠一、永井幸太郎を中心に鈴木商店の残党40名(国内39名、ロンドン駐在1名)が集結して日商の創立総会が開催され、日商は鈴木商店の一部の商権、主に貿易面の商権を引き継ぎ、日本商業を改組してスタートしました。
なお、調査書の「経過及内容」には、次のように記されています。
「会社(日本商業)は去る明治42年2月、鈴木商店の別働隊とも言うべき直輸出入機関として設立され、表向きは株式会社の形式であるが、内容は鈴木商店の一部隊であって重役等も同店の店員とも言うべき関係を持ち、公表されている資本以外に必要に応じて(鈴木商店の)本部より資金供給を受け、業務の大綱は総て鈴木商店の本店総務と金子直吉氏が統括しており、従って同社の内容についてはその真相を確かめ難い。」
なお、「営業状態」では、次のように懸念も示されています。
「輸出取扱品は多様であり、金物、肥料、製油原料等を主とし、輸入は棉花、綿糸、布毛原料を主とする。大商店(鈴木商店)を背景とし、取引振りは相応敏捷で日頃から思惑的取引を常としていることから、一面では営業振りは冒険的で利害の消長が多い。」