帝国興信所が作成した「鈴木商店調査書」シリーズ⑬「株式会社鳥羽造舩所」(調査4~78)をご紹介します。
2025.3.8.
「鈴木商店調査書」をご紹介するシリーズの13回目です。
三重県鳥羽町の鳥羽造船所は兵庫県相生町の播磨造船(株)とともに第一次世界大戦勃発に伴う海運業界未曾有の好況を背景に、鈴木商店が買収を目指した既設造船所であり、金子直吉の命を受けた信任の厚い辻湊(左の写真)により、造船事業への進出を実現すべく買収が進められました。
明治11(1878)年、鳥羽造船所は鳥羽の士族等が合資して開業し、明治30(1897)年以降は安田財閥の祖・安田善次郎らにより積極経営が展開されましたが、日露戦争の終結とともに造船ブームは過ぎ去り、さすがの安田も撤退を余儀なくされました。(下の写真は、明治35年頃の鳥羽鉄工 [鳥羽造船所] です)
その後、造船所の造船事業は三重紡績系列の四日市鉄工所に、電灯事業は同じく三重紡績系列の中央鉄工所の経営に移りましたが、いずれも造船事業に不慣れなため廃業寸前の危機に陥ります。
大正5(1916)年、この状況を打開するため真珠王・御木本幸吉を始めとする地元鳥羽の有志は鈴木商店に造船所の買収を申し入れ、鈴木商店は鳥羽造船所の全事業を継承して(株)鳥羽造船所を設立しました。
鳥羽造船所は先に買収した播磨造船所の専務を兼務する辻湊が経営の指揮を執りました。辻は造船部門については4,000トン級までの中・小型船の建造を中心に運営する一方で大正6(1917)年5月、造船所の一隅に電機試作工場を設け、電気係を組織しました。
同年、小田嶋修三が入社すると電機部門である鳥羽電機製作所は最大のヒット製品、人造絹糸製造の心臓部となる「ポットモーター」をはじめ、特徴ある電機製品を次々に生み出していきました。(左の写真は、大正6年頃の鳥羽造船所です)
大正7(1918)年に第一次世界大戦が終結すると金子直吉は反動不況を想定し、造船と海運の緊密な連携をはかるべく鳥羽造船所は播磨造船所、浪華造船所とともに帝国汽船に合併され、帝国汽船鳥羽造船工場となり、さらに大正10(1921)年には播磨造船工場とともに神戸製鋼所に合併され、神戸製鋼所鳥羽造船工場となりました。
鈴木商店経営破綻後の昭和4(1929)年、神戸製鋼所は播磨造船工場を分離独立させ、(第二次)(株)播磨造船所が新発足しましたが、これに先立つ昭和2(1927)年、鳥羽造船工場の造船・起重機部門を播磨造船工場に統合しました。この時電機部門である鳥羽電機製作所は神戸製鋼所に残され、再スタートを切りました。
その後、神戸製鋼所の電機部門は神鋼電機を経て、現在のシンフォニアテクノロジーに発展して行きます。
なお、調査書の「会社の沿革 現況」には、次のように記されています。
「同社(株式会社鳥羽造船所)は元名古屋市所在株式会社中央鉄工所(原文ママ。正しくは "四日市鉄工所)の業務の一部であった造船事業を鈴木商店が買収し経営するものである。‥‥ 業績は遅々として振わず、経営上非常に苦心し、止むを得ず鳥羽造船所と電気事業を相当価格で売渡す意向であったが、遂に昨5年12月、鈴木商店へ19万円で譲り渡したものである。」
「創立後余り日が経っておらず、それに加えて本期の半ばには様々な準備に日数を費やし、工程日数はわずか3ヶ月に過ぎないが、造船界は大活躍の高潮期であることから期待していた以上の好成績挙げ、純益13万2千余円を計上した。従って、前途の業績を推測するのは難しくはない。」