鈴木商店研究家・齋藤尚文氏が「金子直吉の天下三分の宣言書が書かれた時期」について研究発表されました。
2016.2.6.
当記念館の編集、とりわけ「地域特集(台湾)」について全面的にご協力を頂いています兵庫県立芦屋高等学校教諭・齋藤尚文氏(博士・学術)が、次のとおり神戸外国人居留地研究会の例会にて、研究発表を行いました。
■日時: 平成28年1月30日(土) 13:30~15:00
■場所: 神戸市立博物館(神戸市中央区京町24)
■主催: NPO法人 神戸外国人居留地研究会(理事長:神木哲男)
※神木哲男氏(神戸大学名誉教授・奈良県立大学名誉教授)は、特別協力者として当記念館の編集にご協力頂いています。
■テーマ: 鈴木商店・金子直吉の「天下三分の宣言書」(*)はいつ書かれたか
(*)当記念館におきましては、通常「天下三分の宣誓書」と表示しています。
※金子直吉の「天下三分の宣言書」が書かれた時期についての新見解、「大正4年」を発表されました。
"三井三菱を圧倒する乎、然らざるも彼等と並んで天下を三分する乎"という金子直吉の気迫に満ちあふれた大号令とも言うべき長文の手紙、所謂「天下三分の宣言書」には日付(11月1日)のみが記されていることから、実際に書かれた時期については、近年まで「大正6年」とされてきました。齋藤氏は、今回の発表でこの時期について新見解を述べられ、かつ、その根拠について解説されました。以下に、その要旨をご紹介します。
新見解、「大正4年」の根拠の解説に先立ち、なぜ、今日まで「大正6年」とされて来たのかについて次のように述べられました。
○まず、手紙の受取手の高畑誠一の記憶違いをあげられました。高畑は、「私の履歴書」(日本経済新聞)において「大正6年」と記述しているが、「金子直吉伝」における「天下三分の宣言書」の日付に「大正6年」が付加されたのも高畑の記憶が基になっていると推論。
○次に、桂芳男(「総合商社の源流 鈴木商店」の著者)の論考については、鈴木商店が大正6年に三井物産の年商を凌いだこととリンクさせてしまった結果と位置付ける。
○一方、「大正5年」とする説については、「松方・金子物語」(藤本光城著)、「金子直吉遺芳集」(柳田儀一編輯)に掲載されている浅田長平(当時、神戸製鋼所会長)の回想談を根拠としていることを紹介。また、鍋島高明氏(「大番頭 金子直吉」の著者)の論考は、同著作が、宣言書が書かれた時期に対する疑問を文筆で初めて世に問いかけた作品と位置付ける。
そして、「大正4年」に書かれたとする根拠については、ほとんど引用されることのない宣言書中の商況分析の依頼と報告の部分に隠されているとして次の5点を示され、最後に、これにより宣言書が「大正4年」に書かれたと想像できる、高畑誠一に手紙を届けた小川実三郎氏の回想談(「たつみ」第3号に掲載)を紹介されました。
◆「天下三分の宣言書」が大正4年に書かれたとする根拠
(1)帝国丸と報国丸
船舶、先の帝国丸は他に売却(明年七月六十五万円にて)せり、続いて報国丸の又売らんとす。
●帝国丸は、大正5年夏頃に山下汽船に売却された。売却後、10月には大連から朝鮮へと船籍が移動、さらに大正6年12月にはフランス海軍省へ転売された。
※満鉄調査課『関東州の置籍船』(大正13年)
※外務省外交史料「山下所有帝国丸ヲ仏海軍省ニ売却ニツキ証明ノ件」、大正6年12月
●報国丸は、ポートランド(北米)で積荷を満載し、ダーバン(南アフリカ)へ向かう途中、シンガポール出港後、大正4年12月24日の通信を最後に行方不明となった。ドイツ潜水艦による攻撃で撃沈と推定。
※外務省外交史料 大連市南満州物産株式会社/(2)報国丸 大正十四年九月
これにより、宣言書が書かれた時期は、帝国丸・報国丸が南満州汽船の所有船として健在な「大正4年11月1日」と特定できる。
(2)新造船発注
其の代りに一万噸の船二ツ、五千噸一ツと三千噸一ツ、今新造中也、一番早き分にて来年八月に出来る。
●大正5年7月29日付「神戸又新日報」に、手紙とほぼ同じ内容の発注記事が確認できる。三菱造船へ発注した1万トン級船舶が、大正5年8月中に出来る予定であることがわかる。これにより、宣言書が書かれた時期は、前年の「大正4年」であることが特定できる。(朝日新聞も、翌日付で同様の記事を掲載)
(3)鉄の供給
又英米に於ける鉄の供給は戦局の如何に拘らず継続し得らるゝや、戦後に於ける需要供給の見込如何。
●アメリカが鉄材禁輸をしたのは、大正6年8月。その年の11月1日は、船鉄交換についての政府交渉が継続中。一方のイギリスは、大正5年4月に禁輸していた。
●金子直吉の問いはアメリカ、イギリスからの鉄供給の見通しを尋ねる内容なので、大正5年や6年ならばこの質問はない。宣言書が書かれた時期は、「大正4年11月1日」が妥当である。
(4)非鉄金属製錬
当方にて銅亜鉛等製煉事業を開始したるに甚だ好結果也。即ち銅は支那の古銭其の他古金類を分解亜鉛と銅を得るに在り、亜鉛と鉛はロシヤ、濠州により鉱石を取寄せ是を製煉しつつ在り、
小川君持参の砲弾はロシヤの注文にて数ヶ月後より製造する予定也。
●「金子直吉伝」によると、ロシアからの砲弾注文に応じ、銅亜鉛鉛の製錬に動き出したのは、大正4年の夏頃(*)からとある。また大正6年のロシアは、2月革命(3月)、10月革命(11月)が起こっている。ロシア政府の崩壊情報に直面しながら、ロシア注文の砲弾を数ヶ月後から製造開始することはあり得ない。この記述は、「大正4年11月」現在で直近の国内事業の進捗状況を伝えたものとして捉えるべき。
(*)当記念館の調べによると、「田宮嘉右衛門伝」(田宮記念事業会編)の95頁にも、「この動機は大正4年夏、鈴木商店が、ロシア政府の内命を受けたブリーネル商会との間に結んだ大量の野砲弾製作契約から始まる。...」との記述がある。
(5)小川実三郎のロンドン支店赴任
小川君の増員を行ふも又ロンドン出張所に如斯余裕を与えんと欲するに外ならず、
◇神戸からロンドンへ「宣言書」を持参した小川実三郎自身の回想談
「ロシア貿易と云えば私には忘れられない思い出がある。1915年(大正4年)、今から丁度50年前のこと。第一次世界大戦の始まったのが1914年(大正3年)8月だったから、開戦1年、戦争は漸く拡大してきた。... (中略)... 間もなく私は神戸からロンドンに転勤を命ぜられ、シベリヤ鉄道で赴任の途に就いたが、途中一週間許り永井さんの処に居候...と云ってもペトログラード第一のホテルヨーロッペスキ-に泊まって永井さんのお仕事振りを拝見することができたが、... (中略)... 私はスウェーデン、ノルウェイを経てロンドンに到着、有名な金子親書「三井三菱と天下三分」のあの長い毛筆巻紙の書簡を無事高畑さんに手渡すことが出来た。」 ※「たつみ」第3号(昭和40年5月)(辰巳会編)より
◆宣言書の歴史的な位置づけについて
なお、齋藤氏は宣言書の歴史的な位置づけとして、次のようにまとめておられます。
「金子直吉は、大正3年11月「あらゆる商品・船舶に一斉に買出動を開始」し、数ヶ月後には数千万円の巨利を鈴木商店にもたらした。ロンドン支店に「宣言書」をしたためたのは、その買い出動からおよそ1年後にあたる大正4年11月1日であった。この頃の鈴木商店は、南満州汽船所有の輸入中古船の売却を進める一方、国内造船所に新造船を発注し、神戸を拠点とした新たな海運会社・帝国汽船の設立へと動いていた。また、当時の大手社外船主の定石どおり造船業をも手がけ、非鉄金属製錬工場、満州大豆油工場の運営など大がかりな事業を矢継ぎ早に立ち上げ、推し進めようしていた時期にあたる。「天下三分」の宣言は、緒戦に勝利した金子がこれら事業を軌道に乗せ、来るべき決戦を想定し、自らと鈴木社員を鼓舞するために発した大号令と位置づけることができる。」
◆齋藤氏の新見解、「大正4年」に対する当記念館の見解
今般、当記念館の複数の編集委員の間で、齋藤氏の「大正4年」説について意見交換を行ったところ、前述の5つの根拠のいずれにつきましても着眼点、緻密な分析・理論構成等申し分なく、当記念館といたしましても、この新見解、「大正4年」を全面的に支持することで一致いたしました。
なお、これを受けまして、当記念館の関連記事(*)を一部修正いたしました。
(*) 「鈴木商店の歴史」のうち、「日本一の総合商社へ~天下三分の宣誓書」
神戸新聞社の電子新聞サービス「神戸新聞NEXT」にも、今回の今齋藤氏の研究発表が公開されています。
下記の関連リンクも、あわせてご覧下さい。
以上