鈴木商店こぼれ話シリーズ⑤「海賊と呼ばれた男・出光佐三が「日章丸」を発注した先は播磨造船所」をご紹介します。

2017.5.4.

出光佐三と日章丸.jpg作家・百田尚樹による歴史経済小説『海賊とよばれた男』の主人公・国岡鐡造のモデルとなった出光佐三(明治18(1885)年8月22日~昭和56(1981)年3月7日)は、出光興産創業者として明治末から戦後にかけて活躍。(写真は出光佐三と日章丸)

明治42(1909)年、神戸高等商業学校(現・神戸大学経済学部)を卒業した出光佐三は、当時貿易商として躍進し始めた鈴木商店の入社試験を受けた。同期の高畑誠一には早々と合格通知が届いたのに、出光には来ない。そこで止む無く神戸の酒井商店という小麦粉や石油・機械油を取り扱う従業員わずか3人の零細商店に丁稚として入る。鈴木商店からの"採用の知らせ"は、酒井商店入りが決まった後に届いた。一徹な出光が酒井商店入りを変えることはなかった。

神戸高商のもう一人の同期の永井幸太郎は、一旦スタンダード石油に入社したが、高畑の誘いを受けて半年遅れで鈴木商店に入社した。こうして出光は、高畑、永井とは別々の人生を歩むことになった。

出光佐三は、明治44(1911)年独立して福岡県門司(現・北九州市門司区)に出光商会を開き,機械,石油の輸入・販売で成功。昭和15(1940)年出光興産として改組設立,爾来石油の精製販売で民族資本の元売り大手として発展した。

昭和28(1953)年3月、出光興産は、石油を国有化し英国と抗争中のイランへ"日章丸(第二世)"を極秘裏に差し向けた。同船は、ガソリン、軽油約2万2千キロℓを満載し、同年5月、川崎港に帰港した。

これに対し、英国アングロ・イラニアン社(BPの前身)は積荷の所有権を主張し、出光を東京地裁に提訴。これが「日章丸事件」と云われる事件で、法廷で争われることになった。裁判の経過は連日、新聞でも大きく取り上げられ、結局、アングロ・イラニアン社が提訴を取り下げたため、出光側の勝利となった。イラン石油の輸入は、その後、イランにおいてメジャー(国際石油資本)の結束が再び強化されたため昭和31(1956))年に終了した。

しかし、この「事件」は、産油国との直接取引の先駆けを成すものであり、日本人の目を中東に向けるきっかけになり、敗戦で自信を喪失していた当時の日本で、国際社会に一矢報いた「快挙」として受け止められた事件でもあった。

出光興産の原油タンカーの歴史は、昭和13(1938)年の"日章丸一世"(1.4万t)建造にはじまり、昭和26(1951)年には"日章丸二世"(1.9万t)を建造した。昭和37(1962)年には当時世界最大の"日章丸三世"を建造、その後も昭和56(1981)年に"四世"、 平成16(2004)年に"五世"を竣工させている。その間、昭和41(1966)年には世界ではじめて20万tの壁を破る「出光丸」を建造し、マンモスタンカー時代の幕開けを演じた。

「日章丸事件」で一躍脚光を浴びたのは、"日章丸二世"で、出光興産はその建造を播磨造船所(後の石川島播磨重工業~IHI~アイ・エイチ・アイ・アムテックを経てJMUアムテック)に発注した。

かつて一度は鈴木商店への入社を望みながら、その願いが叶わなかった出光佐三が自身の事業の命運を賭けるタンカー建造を鈴木ゆかりの播磨造船所に託したことは偶然であろうか?

JMUアムテック(兵庫県相生市)の史料室には、昭和26(1951)年に進水・竣工した"日章丸二世"の手書きの設計図が60年経った現在も大切に保存されている。

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