鈴木商店こぼれ話シリーズ⑦「江戸川乱歩と鳥羽造船所」をご紹介します。
2017.5.17.
推理小説や探偵小説で知られる江戸川乱歩(本名 平井太郎(明治27(1894)年10月21日~昭和40(1965)年7月28日、享年70歳)は、シンフォニアテクノロジーの前身で鈴木商店の関係会社・鳥羽造船所に一時籍を置いていました。作家としてデビューする4年前の1年4ヶ月という短期間ではありましたが、この期間が作家・江戸川乱歩の人間関係や作品に大きな影響を与えたと云われます。後年、乱歩は「この鳥羽での一年余りの生活が一番面白かった」と語っています。(写真左は、鳥羽造船所時代の平井太郎(江戸川乱歩)と主任・小田嶋修三(前列中央)ほか)、右は鳥羽造船所)
三重県多賀郡名張町(現・名張市)出身の平井太郎は、大正6(1917)年、父の知人の紹介で鳥羽造船所電機部に就職しました。庶務課に配属された平井は、当時の技師長桝本卯平に気に入られ、社内報の編集や鳥羽おとぎ倶楽部の設立など、造船所と地元の人との交流を進めました。こうした交流を通して平井は坂手島の小学校の教員だった村山隆子と知りあい結婚しました。
平井はよく無断欠勤しては、寮の自室の押入れにこもることがあったと云われます。この時の体験が作家・乱歩の「屋根裏の散歩者」(大正14(1925)年)という作品のヒントとなったと述懐しています。また、代表作「パノラマ島綺譚(奇談)」(大正15(1926)年10月~昭和2(1927)年4月)の舞台モデルとなったのが、平井が毎日のように庶務課の窓から眺めていた島と言われています。
乱歩の自伝では、「・・・まだ独身寮ができていなかったので、社員クラブの2階で泊まっていた。それから城山(旧鳥羽城跡)の済美寮。そこで私は深夜、付近の禅寺へたった一人で座禅を組みに行ったり、会社を休んで自室の押入れの中に寝ていたりしていた。(中略)・・・技師長、桝本卯平氏の気にいったのか、話し相手にしてくれて、その信任のために随分我儘をすることができた。」
さらに自伝では、鳥羽造船所時代、落車事故に遭い、九死に一生を得たエピソードが紹介されています。「寮にいるころ悪友と深夜、山田市(現伊勢市)へ遊びに行ったため自動車で峠越えをしたら、崖から落車、車体が崖の途中に生えている松の木数本に支えられて横倒しのまま、ゆらゆらしていた。下は底も見えない深さである。私達は一人ずつやっとの思いで上の峠道に這い上がった。もう少しで死んでしまうところであった。」
このような型破りな社員・平井太郎が大正7(1918)年、鳥羽造船所初の社内報「日和」を発行兼編集人として創刊しています。なお日和の由来は、旧鳥羽城跡の西に位置する日和山(ひよりやま)から取ったもの。
社内報「日和」は創刊号に続き、翌月12月15日に第2号が発刊されたが、3号をもって廃刊となりました。鈴木商店関連会社、工場でそれぞれ作られていた社内報を、鈴木商店の神戸本店でまとめることが決まったことによる。「日和」発行人・平井太郎は、第3号の原稿を後任へ託し、鳥羽造船所を退社し作家活動を目指しました。
平井太郎は、鳥羽造船所では電機部主任・小田嶋修三、技師長・桝本卯平などの上司にも恵まれ、地元では風俗研究家・岩田準一との交友関係が生まれたことにより、人間関係が広がり作家・江戸川乱歩の誕生に大きな影響を及ぼしたと云われます。