鈴木商店こぼれ話シリーズ⑩「城山三郎「鼠」に登場する久老人は合気道の達人」をご紹介します。
2017.6.30.
昭和32(1957)年、小説「輸出」で第4回文学界新人賞を受賞して文壇デビューし、経済小説という新しいジャンルを切り開いた城山三郎(本名・杉浦英一)は、愛知学芸大で教鞭を執りながら次々に作品を発表した。
昭和39(1964)年、雑誌「文学界」に連載された「鼠」は、"大正財界の悪役"とされ、米騒動により大正7年8月12日焼打ちにあった神戸の鈴木商店の栄枯盛衰を描いたノン・フィクション・ノベルである。この通説に疑問を抱いた著者が綿密な取材と足で調べた膨大な資料を基に真相を糾明して鈴木商店の汚名を雪いだという点からも高く評価されている。
同小説では、数多くの鈴木商店OB、関係者への取材を行っているが、鈴木商店の生き残りの証人として「久老人」なる人物を度々登場させ、鈴木の中枢幹部とは異なる"土佐派"幹部としての視点から客観的な感想を引き出している。
「久老人」は、大正8(1919)年神戸高商を卒業し、鈴木商店に入社した「久琢磨」のことであり、鈴木商店における"高商派"の一員でもあり、高知出身から"土佐派"でもあった。
久琢磨は、高知・室戸出身だが高知商業卒業ではなく大阪・成器商業(現・大阪学芸高等学校)卒業。神戸高商時代は、相撲部のキャプテンとして活躍、関西学生相撲大会で優勝するなど神戸高商・相撲部の基礎を築いた。後年、久は、鈴木商店に入社し、鈴木商店と高知商業の関係から高知商業の校友となり、同校の相撲部のコーチとして業務のかたわら度々指導に訪れた。また、高商出身者ながら土佐派の中核としても大きな役割を果たした。鈴木破綻直前、台湾銀行等による金子直吉退陣要求に土佐派として強く抵抗を示した。
神戸高商時代の久は、金子の資金援助により運営されていた「土佐寮」から通っていた。鈴木入社後は、土佐派として金子直吉の側近を自負していた久が、鈴木破綻後、あれほど鈴木を敵対視していた朝日新聞社に移ったのは、神戸高商の相撲部の大先輩で朝日新聞に居た石井光次郎(後の衆議院議員、商工、運輸、国務、通産、法務大臣歴任)から誘われたからといわれた。(「鼠」より)
朝日新聞社時代、石井の紹介で合気道の植芝盛平を社に招き指導を受けたことから武道との関わりが始まる。次いで植芝の師・武田惣角(大東流合気柔術中興の祖)の指導を受け、当時3万人とも云われた門弟のうち、唯一人免許皆伝を授けられ、同派の後継者と認められた。後年、久の門弟たちによって「大東流合気柔術・琢磨会」が結成され全国に支部が設けられている。なお、植芝は、大東流から離れ、独自の流派「合気道」を開きその開祖となり、現在は合気道に二大流派が存在している。