鈴木商店こぼれ話シリーズ⑮「初の学生横綱は、神戸高商出身の田中四郎」をご紹介します。
2017.9.24.
学生横綱から商社マン、晩年は著名な歌人として活躍
田中四郎は、和歌山出身で、和歌山商業時代、全国少年相撲大会で優勝。神戸高商では久琢磨より3年後輩。久の誘いで相撲部に入部、2年目に全国学生相撲大会で優勝し、初の学生横綱となり神戸高商相撲部の全盛期を築いた。神戸高商入学に当たって、先輩の久が金子直吉に"余り仕事をさせず、一人の秀才に学問をさせる積りで育てて貰いたい"と頼むと金子は、"わかった。三男(猪一)の勉強をみてやってくれれば上等じゃ。連れて来い。"とあっさり土佐寮での下宿を認めたという。
田中は、鈴木破綻後の昭和4(1929)年から3年間、鈴木の関係会社「山陽電気軌道」で運輸課長として勤務し、数々の催事を企画。"西日本の宝塚"を目指し、「長府土地」との共同事業として進めた「長府楽園地」も田中の企画で実現したもの。また、鈴木破綻後に栗本鉄工所に勤務した田中は、歌人・土屋文明に師事し、アララギ派の歌人としても知られ、ペンネーム「青野 梓」名で多くの歌を残しており、歌集「青野」、「初夏集」などを著している。「長府楽園地」についても次の歌を残している。
"ひろびろと見ゆる遊園地形の植込みは風になびかふ"
夫人は、金子直吉の次女・須磨子で、須磨子の母でもありホトトギス派の歌人でもある金子仙女(徳)が須磨の金子別邸(一の谷山荘)で催す句会には常連として参加していた。田中は後年、太陽産業の役員も務めたが、終戦の日・昭和20(1945)年8月15日、北朝鮮にて戦死。
亡くなってから30年近くを経た昭和49(1974)年に関係者が集まり「田中四郎を偲ぶ」を刊行した。出版元は有斐閣、久琢磨(鈴木商店)、西川政一(前日商岩井社長)、江草四郎(有斐閣会長)、土屋文明(歌人)、南條範夫(作家)等が寄稿または座談会に出席している。