「播磨造船所の歴史⑨」を掲載しました。
2020.5.22.
「播磨造船所の歴史」を紹介するシリーズの9回目、今回がシリーズの最終回になります。
昭和62(1987)年10月、かつて単独の造船所として3年連続して世界一の進水量を誇った「相生第一工場」(旧・播磨造船所)は、昭和48年の秋に始まった第一次オイルショックに端を発する長期的な造船大不況の最中、昭和60(1985)年9月の「プラザ合意」に伴う円高に直撃される形で新造船からの撤退を余儀なくされ、相生は遂に「造船の町」としての幕を下ろすことになります。
しかし、相生には今も播磨造船所に由来する行事や建造物が残されています。大正11(1922)年に播磨造船所の長崎県人会が故郷を偲んで提案したことから造船所の海上運動会として始まった「ペーロン競漕」は、「相生ペーロン祭」の海上行事として毎年5月に開催されています。
IHI相生事業所の工場群の北端には、今も鈴木商店時代に建てられた赤煉瓦造りの倉庫が残されており、往時の造船所の繁栄を偲ぶことができます。この建物の上部には、御影石(花崗岩)による 鈴木よね の名前の"米"を象った星形のマーク「よね星」が大きく掲げられており、鈴木商店の紋章が全国でただ一つ残されている歴史的な建造物となっています。
また、大正7(1918)年初より鈴木商店の北村徳太郎らの主導によって籔谷(現・旭)を中心に海面を埋め立て、造船所の従業員社宅が大量に建設されましたが、これらの社宅群の一部は今も健在であり市民の住居として使用されています。なお、大正6(1917)年6月に開設された「株式会社播磨造船所附属籔谷医院」(後・播磨病院)は、現在IHI播磨病院として地域の医療を担っています。
上の写真は、IHI相生事業所内にある倉庫上部の鈴木よねの"米"を象った星形マーク「よね星」です。