鈴木商店こぼれ話シリーズ㉚「土佐・傍士質店の丁稚時代に金子直吉が民事訴訟で争った弁護士・北川貞彦は、著名な自由民権運動家」をご紹介します。

2018.5.15.

DSC_0539北川貞彦.jpg金子直吉の傍士質店時代の高知では「立志社」をはじめ多くの政治結社があり、自由民権運動が盛んであった。金子も政治関係の書物を読み漁り、将来は政治の世界を夢見ていた。

"質屋大学"で学んだことを実地に試してみたいと思っていた折、たまたま主人の家に訴訟事が起こったのでぜひともこれに主人の代理として出廷してみたいという望みを抱き、そのことを主人に願い出た。

当時相手側にはこの地方で著名な北川貞彦という弁護士が代理を引き受けていた。「せっかくの希望だが先方は名だたる大家、お前の如き若造の及ぶところではない」と云って主人は容易に承諾しない。しかし彼としては相手が大家であってこそ一層張り合いがあるということで、粘りに粘って主人を説き伏せ、その裁判の結果は勧解(和解)、民事訴訟で二度も勝ってしまった。金子直吉、20歳の出来事であった。(「金子直吉伝」)

この訴訟の相手側の弁護士を務めた北川貞彦は、地元土佐藩士の家に生まれ、代言人(弁護士)資格を有すると同時に自由民権運動の熱心な活動家としても知られた人物。

北川は、板垣退助を中心に片岡健吉、林有造、谷重喜ら地元活動家により、明治7(1874)年4月に結成された政治結社「立志社」の自由民権運動に加わり、明治10(1877)年、自らも立志社の下部組織として民権結社「発陽社」を興し社長を務めた。

また、明治時代の大日本帝国憲法発布以前に、民間で検討された憲法の私案(私擬憲法)が盛んに起草されたが、高知でも自由民権運動期に多く作られた。北川と親交があり、自由民権運動の理論的指導者として知られる植木枝盛起草の「日本国々憲案」やそれを修正した北川貞彦起草(立志社)の「日本憲法見込案」は、現行の「日本国憲法」に直接の影響を与えたものと評価されている。

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