鈴木商店こぼれ話シリーズ㉟「鈴木商店創業期を牽引したのは、"コンプラドール(商館番頭)"と呼ばれた居留地外国商館出身者たち」をご紹介します。
2018.12.12.
慶応3年12月7日(1868年1月1日)兵庫津の東に位置する神戸村(現在の兵庫県神戸市中央区)に設けられた神戸外国人居留地は、126区画に区分されイギリス(64区画)、ドイツ(23区画)、オランダ(15区画)、アメリカ・フランス(各11区画)、イタリア(1区画)の6か国の商館および行事局(1区画)が進出し、400人余りの外国人が居留した。明治23(1890)年には、2,000人を超える外国人が住むようになった。
外国商館のうち、ポルトガルやオランダ商館では、商館員が日本に居留し、日本人との商取引のため「買弁(コンプラドール)」と呼ばれる清国人を帯同し、食糧や日用品の調達係や取引の通訳として起用。やがて外国商館では、清国人のコンプラドールが重用されるようになった。また、外国商館に雇われ、その実力を認められた日本人が番頭に起用され、買弁(コプラドール)と同様、日本人との商談を担うことも日常的に行われた。日本人番頭もやがて「商館番頭=コンプラドール」と呼ばれるようになった。
神戸外国人居留地に進出した主な外国商館には、英国系のシム商会、モーリヤン・ハイマン商会(グラバー商会系)、キルビー商会、ハンター商会、ジャーディン・マセソン商会など、米国系のウォルシュ商会、アダムソン商会など、ドイツ系のクニフラー商会(後のイリス商会)、ラスぺ商会、シモン・エバース商会、オットライマース商会、バオル・ハイネマン商会、デラカンプ&マクレガー商会などがあった。
鈴木商店とゆかりの外国商館のうち、「イリス商会」はドイツ・ハンブルク出身のクニフラーが設立した「クニフラー商会」を前身とし、明治13(1880)年に、カール・イリスが引継ぎ、イリス商会と商号を変更。同社は、現存する在日外資系企業(株式会社イリス、本社:東京品川区)として最古の歴史を誇る。また外資系でありながら日本で創業されたというユニークな企業でもある。
また、同じドイツ系の「ラスぺ商会」は、日本から絹、茶の輸出、ドイツから機械の輸入を主要事業とし、同社の共同経営者は後に「日本商業」の経営に加わるエミール・ポップである。
しかし外国商館を介する輸出入取引は、徐々に日本人による直接貿易に移るようになり明治32(1899)年、神戸外国人居留地は日本側に全面返還されると外国商館の多くは旧居留地のみならず日本から撤退。これにより外国商館で商館番頭として働いていた多くの日本人が新興の貿易商社に活躍の場を求めた。
事業の多角化を進めると同時に、国内外の体制の拡充を図る鈴木商店は、即戦力となる人材の確保に動き、これらの商館番頭(コンプラドール)を積極的に受け入れた。
イリス商会出身の芳川荀之助、香川潔、ラスペ商会出身の岡本良太郎、井田亦吉、森衆郎などがいる。語学力、貿易実務、折衝力などに優れた能力を発揮し、高商派と呼ばれる「学卒派」が台頭するまでの時期、鈴木商店の発展を牽引した。
コンプラドールを代表する芳川荀之助は、ジャワ糖、ラングーン・サイゴン米の輸入業務、機械の買付けなどを促進するためロンドンに派遣され、高畑誠一が後任として赴任するまでロンドン支店長を務めた。また、国内では帝国汽船の取締役を務めた。
岡本良太郎は、欧米各国視察に派遣された。森衆郎並びに井田亦吉は、関係会社各社の役員を兼任して鈴木の多角化路線を進めた。森は、大里製粉所、日本商業の取締役を、井田は、佐賀紡績の専務取締役のほか、日本商業、帝国汽船、東京毛織、大日本塩業、広島瓦斯電軌各社の取締役を兼任した。