鈴木商店こぼれ話シリーズ㊱「鈴木商店とゆかりの料亭①」をご紹介します。

2018.12.23.

鈴木商店の多角化と業容の拡大が始まる明治末期から大正初期、日本各地で事業展開のための商談、企業買収の折衝等々が進められた。地元有力者や政財界人と鈴木商店の折衝は老舗料亭がその舞台を担っていた。さらに事業の成功を祝す宴会や要人をもてなす迎賓館としても料亭が利用されていた。鈴木商店と各地ゆかりの老舗料亭との繋がりを振り返って見る。

◇大里(門司)「三宜楼(さんきろう)」と関門コンビナート

 dairi11_03dantyou-thumb-245xauto-327三宜楼.jpg明治39(1906)年創業の「三宜楼」は、門司港を代表する高級料亭であり、多くの政財界人、文人が利用した老舗料亭として知られる。

 鈴木商店が本格的に関門地区に進出した「大里製粉所」(明治44(1911)年)、「帝国麦酒」(明治45(1912)年)を皮切りに一大コンビナートを建設する節目には、関係者との会合の場所として三宜楼が頻繁に利用された。三宜楼の大広間に設けられた舞台には「サクラビール」の商標が織り込まれた緞帳が下がり、鈴木商店との強い繋がりが偲ばれる。

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◇佐賀「楊柳亭」と佐賀紡績

 DSC_0206楊柳亭(明治23年頃)-thumb-245xauto-7308.jpg紡績業を興し佐賀の経済的発展を期す佐賀市長・野口能毅を始め、地元有力者5名により佐賀紡績の設立構想が練られ、大正5(1916)年、地元料亭「楊柳亭」において設立発起人会が開かれた。 

 同発起人会は鈴木商店の経営参画を切望し、鈴木商店総支配人(井田亦吉)を招き「楊柳亭」に於いて佐賀紡績の構想を直接説明したとされている。

 佐賀紡績の設立構想の段階から度々会合の場所として利用された「楊柳亭」は、明治15(1882)年の創業、初代の佐賀県知事をはじめ地元政財界人が度々通ったほか、犬養毅など中央政界の要人にも利用された。本格的な日本料理は、和風のただずまいと共に一般市民にも愛され、賑わいを見せた。

◇米沢「招僊閣」と帝国人造絹糸

 米沢・招僊閣(移転後)-thumb-245xauto-5814.jpg山形県米沢高等工業学校(現・山形大学工学部)での我国初の人造繊維の技術開発に目途が立った鈴木商店に対し、地元財界は地元への工場誘致を持ちかける。金子が米沢を視察に来た際には高梨市長、米沢高等工業学校の大竹校長、長谷川両羽銀行(現・山形銀行)頭取を始めとした地元の名士が金子を老舗料亭「招僊閣」に招き、米沢への工場進出を強く要請した。同料亭は、明治中期に松岬神社内に奉幣使旅館、例祭来賓接待所として神社財団松岬会が建てたと記されている。

 地元の要請に応えた鈴木商店は、米沢への進出を決定し大正4(1915)年、人造絹糸の研究を援助してきた鈴木商店の子会社・東レザー(後の東工業)が、米沢製糸工場跡地を買い取り、「東レザー米沢人造絹糸製造所」として米沢高等工業学校より秦逸三を工場長に迎えて人造絹糸の生産を開始。大正7(1918)年には帝国人造絹糸(現・帝人)として分離独立させた。大学発のベンチャーの先駆けであり、日本の化学繊維工業のはしりであった。

◇静岡「求友亭」と鈴木商店清水製油所(後の豊年製油、現・J-オイルミルズ清水工場)

 history_pic02求友亭.jpg大正4(1915)年、南満州鉄道(満鉄)の製油事業「大連油房」を買い取った鈴木商店は、満鉄からの条件として、横浜、鳴尾、清水の3か所に国内製油所を設立することを決定した。

 鈴木商店の清水への進出に対しては、鈴木商店が県外企業であったこと、海岸の埋め立てを漁村が反対したこともあり、当初は警戒心が強かった。地元民との信頼関係を地道に築いた結果、地元民に祝福されて操業に漕ぎつけた。大正6(1917)年の工場落成の祝宴には、知事、県会議員、市町村公吏、新聞各社、実業家等を招待し、2日間にわたって老舗料亭「求友亭」にて披露会を開催した。地元企業として認められ、順調に船出した。

 「求友亭」は、明治13(1880)年に東京・神楽坂の料亭「求友亭」より暖簾分けにより静岡に創業。日本料亭の伝統を貫き、四季折々の旬の素材を生かした懐石料理で知られる老舗。

 鈴木商店清水製油所は、大正11(1922)年、豊年製油として分離独立。順調に業容を拡大した豊年製油の大豆油の販売は大正13(1924)年には日本のシェアの6-7割を誇るほどに成長。

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