鈴木商店こぼれ話シリーズ㊲「鈴木商店とゆかりの料亭②」をご紹介します。

2018.12.29.

鈴木商店とゆかりの老舗料亭は以下の各地にも見られました。

.

◇神戸「常盤花壇」と日米船鉄交換契約祝宴

 常盤花壇-1 - コピー.png日本が米国から鋼材を受け取る代わりに米国に船舶を引き渡すという船鉄交換契約が大正7(1918)年に成立。川崎造船所社長・松方幸次郎のバックアップを得て駐日米国大使・ローランド・モリスとの交渉に臨んだ金子直吉の熱意が実り、我が国の危機を救う一大快挙を成し遂げた。

 モリス大使と米国の好意的な決定に対し、鈴木商店は最大限の謝意を表すため、大使を始め米国関係者を神戸に招き、地元で最も格式の高い料亭「常盤花壇」にて歓迎の宴を設けた。

 「常盤花壇」は明治初年(1868)年、実業家・前田又吉により神戸花隈に創業され、明治6(1873)年に神戸諏訪山に移転、「常盤楼」と改称した後、「常盤東店」、「常盤中店」、「常盤西店」と拡張し諏訪山温泉街の中心となる「常盤花壇グループ」を構成した。 

◇料亭「海月」と鳥羽造船所 

 SDIM1056-4000鳥羽・海月 - コピー.jpg鳥羽駅駅前の観光名所「日和山(ひよりやま)」の麓にある「海月」は、明治20(1887)年創業の老舗割烹旅館である。船大工で棟梁の江崎久助が木造船の造船所を立上げ、同時に興した船宿「久助や」が「海月」の前身。真珠王・御木本幸吉の本邸も近くにあった。

 久助は、明治44(1911)年を境に造船の仕事から手を引き、船宿「久助や」だけに注力した。やがて屋号を「海月」に変えた。

 鳥羽造船所と「海月」との関わりは、鳥羽造船所の前身の「鳥羽鉄工所」の時代から始まっており、大正5(1916)年、真珠王・御木本幸吉など地元民の懇請を受けた鈴木商店が旧鳥羽造船所の再建に乗り出し、新たに「(株)鳥羽造船所」を設立してからも続いている。

 鈴木商店が鳥羽に進出するに当たって、地元民の総意をまとめた御木本幸吉は鳥羽を訪れた金子直吉に頭を下げて要請したと伝えられている。この歴史的な会談の舞台となったのは、御木本の自邸に近い「海月」だったと推測される。 (写真は、料亭「海月」の建物の前の広場で行われる鳥羽造船所起工式の模様)

◇大阪「吉兆」と茶人・高畑誠一

 98819cb718b11910eb32c837a0a0d4d1-300x225吉兆本店.jpg高級料亭として知られる「吉兆」と鈴木商店の直接の接点は無く、鈴木商店破綻から3年後の昭和5(1930)年創業の「吉兆」とは、鈴木商店の後継会社「日商」を立ち上げた高畑誠一個人としての結びつきから始まった。

 昭和5(1930)年、湯木貞一により大阪市西区新町に開業された「御鯛茶處吉兆」が「吉兆」の始まりで、湯木は茶懐石を料理に取り入れ、料理の品格を高め日本料理の地位向上と茶道に傾倒。 

 関西の茶人・財界人の引き立てを受けて名声を高め、来阪する内外の要人をもてなすのに欠かせない高級料亭となる。

  高畑誠一は、吉兆の創業期からの常連として支え、茶道に造詣が深かった湯木とは個人的にも殊の外親しく、定期的に茶事を催し、高畑は"清鴨庵"と号していたほど。 

 湯木は高畑を「精神的な意味で、私と吉兆の店の成長を見守り、支えてくださった大事な大事なお客様」と残している。さらに湯木は山本(為三郎、朝日麦酒(現・アサヒビール)初代社長)と高畑の二人を「吉兆と私の大恩人」と常に感謝の言葉を口にしていたと記している。


関連資料

TOP