鈴木商店こぼれ話シリーズ㊸「二つの三国志に見られる"天下三分の計"に由来する金子直吉の"天下三分の宣誓書"も二つ存在した!」をご紹介します。

2019.9.16.

二つの天下三分の宣誓書.png大正3(1914)年に勃発した第一次世界大戦による大戦景気を捉え、大躍進を期す鈴木商店・金子直吉が大正4(1915)年に認め、全社員への大号令となった書簡は、後年「天下三分の宣誓書」と呼ばれる。この書簡のハイライトとも云うべき"天下三分"の戦略は、中国・三国時代の「天下三分の計」に由来する。(画像は二つの「天下三分の宣誓書」。左は神戸市立博物館に寄託保管している書簡、右は高畑家の遺品から発見された書簡。)

後漢時代(25220年)末期から三国(魏、蜀、呉)鼎立、晋による統一までを歴史官・陳寿によって書かれた歴史書「三国志(正史)」と三国時代から1,000年後の明代に三国志を基に羅貫中によって書かれたとされる通俗歴史小説「三国志演義」のいずれにも「天下三分の計」が記されている。

今日よく知られる「天下三分の計」は、「三国志演義」の中で蜀の劉備玄徳に対し、三顧の礼を以って迎えた軍師・諸葛亮が進言した"隆中策"のこと。諸葛亮は、国土を三分割して劉備(蜀)、曹操(魏)、孫権(呉)の三人で中国を支配し、いずれは中原を攻めるべきとした。

これに対し、「三国志(正史)」の中で軍師・魯粛は、、呉の孫権が採るべき戦略として独自の「天下三分の計」を進言した。諸葛亮の外交を支持し、第三極として蜀の劉備を側面から支援、呉の世論を納得させて天下三分の基本を作り上げた後、天下が変わるのを待つべきと。魯粛の戦略は、独創的で、諸葛亮より「天下三分の計」と呼ぶのに相応しいとの評価もある。

"三国志演義"の中の諸葛亮の策も、"三国志(正史)"の中の魯粛の戦略も"均衡を保つ"ことが目的ではなく、あくまでも最終目的は"中国全土の統一"であり、天下を三分することは統一のための手段に過ぎない。

金子直吉は、いずれの「天下三分の計」を意識していたか定かではないが、三井、三菱のライバルとの三者均衡を保つのではなく、天下統一を目指したことは想像に難くない。この「天下三分の宣誓書」は、今日、神戸市立博物館に寄託保存されている。

先頃、この書簡の宛名の一人・高畑誠一の親族宅の遺品の中から金子直吉が書いたとされる「天下三分の宣誓書」とほぼ同じ内容の書簡が新たに発見されたことから両書簡の鑑定が必要になった。

専門家による筆跡鑑定の結果、金子直吉直筆の数多くの書簡や俳句などの筆跡や筆勢などから両書簡の筆者は異なる人物であり、現在市立博物館に寄託されている書簡が金子直吉の直筆であると結論づけられた。

これにより高畑家より新たに発見された書簡は、金子直吉とは別の人物により書かれたものとされたが、その書簡は誰が何のために書いたのか、その解明が新たな課題として残る。


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