「鳥羽造船所電機工場(現・シンフォニアテクノロジー)の歴史③」を掲載しました。
2020.7.11.
鳥羽造船所電機工場(現・シンフォニアテクノロジー)の歴史を紹介する3回目です。
大正7 (1918)年頃、鳥羽造船所「電機係」は「鳥羽電気部」に改称され、ようやく一般用交流電動機(モータ)の標準型も完成の域に達し、鳥羽造船所で建造する船舶向けだけでなく、鈴木商店系列の造船所・工場の電動機や電気設備は一切、鳥羽電気部より納入されるようになりました。
取締役(工場主)の辻湊に見込まれ大正6(1917)年10月に鳥羽造船所に入社した小田嶋修三は、電気係主任として活躍する一方で職工に対する教育の大切さを痛感し、幾多の困難を排して大正8(1919)年11月、「鳥羽造船所職工養成所」を開設しました。
これが、後の「神鋼電機鳥羽青年学校」「神鋼電機職業訓練所」、そして現在の「シンフォニアテクノロジー能力開発センター」へと受け継がれていくことになります。
この間、第一次世界大戦終結後の反動不況を予想した鈴木商店は事業再編をはかることとし大正7(1918)年5月、鳥羽造船所は播磨造船所、浪華造船所(大正6年に鈴木商店が買収)とともに、鈴木商店が扱う貨物の輸送を担っていた帝国汽船に合併され「帝国汽船鳥羽造船工場」となりました。
※この時、播磨造船所は「帝国汽船播磨造船工場」となりました。
鳥羽電気部では、大正8(1919)年頃からは一般品がかなりのウエイトを占めるようになったため組織体系を整えることになり、名称を鳥羽電気部から「鳥羽電機製作所」に改めました。
上の写真は大正11(1922)年の鳥羽造船所職工養成所入所式の記念写真で、最前列右から5人目が小田嶋修三です。
詳細については次の関連ページをご覧下さい。
鈴木商店の歴史>造船業への進出、播磨造船所・鳥羽造船所の設立>鳥羽造船所電機工場(現・シンフォニアテクノロジー)の歴史③