「鳥羽造船所電機工場(現・シンフォニアテクノロジー)の歴史⑤」を掲載しました。
2020.8.27.
鳥羽造船所電機工場(現・シンフォニアテクノロジー)の歴史を紹介する5回目です。
大正10(1921)年2月15日、第一次世界大戦終結に伴う反動不況による影響が予想以上に深刻になったことから帝国汽船の造船部は廃止され、同社の播磨造船工場および鳥羽造船工場は、鈴木商店系列の神戸製鋼所に合併され、鳥羽造船所は「神戸製鋼所鳥羽造船工場」となりました。
※播磨造船所は「神戸製鋼所播磨造船工場」となりました。
この合併に際しては、神戸製鋼所の幹部から両造船所の閉鎖が提案されましたが、同社の初代支配人で当時常務取締役であった田宮嘉右衛門はひとり、最初から最後までこの閉鎖案に反対を唱え続けました。この時の田宮の信念と気概がなければ、鳥羽造船所電機部門の歴史はここで終止符が打たれていたことでしょう。
大正11(1922)年2月、小田嶋修三は欧米視察から帰国すると早速工場の刷新に取りかかり、「他と異なった特色ある技術・製品で生きるべき」という基本方針を打ち立てました。以後、この小田嶋の方針が実践に移され、次々に斬新な製品が市場に送り出されて行くことになります。
現在のシンフォニアテクノロジーが「技術オリエンテッド」を経営の根幹としているのは、まさにこの時の小田嶋の方針を貫いてきたことに他なりません。
昭和2(1927)年4月、鈴木商店が昭和の金融恐慌に巻き込まれる中で経営破綻を余儀なくされると、神戸製鋼所は資産整理のやむなきに至り、鳥羽の電機工場は再び存亡の危機に立たされます。
上の写真は、田宮嘉右衛門です。
詳細については次の関連ページをご覧下さい。
鈴木商店の歴史>造船業への進出、播磨造船所・鳥羽造船所の設立>鳥羽造船所電機工場(現・シンフォニアテクノロジー)の歴史⑤