「港神戸の発展に貢献した総合商社の源流・鈴木商店」講演会で、神戸新聞社論説委員の小林由佳氏が講演されました。
2019.12.17.
神戸市主催の「港神戸の発展に貢献した総合商社の源流・鈴木商店」第3回講演会で、神戸新聞社論説委員の小林由佳氏が講演されましたのでご紹介します。
【小林由佳氏 講演概要】
■日時 : 令和元年12月14日(土) 14:00~15:00
■場所 : 神戸ポートオアシス5階 503会議室(神戸市中央区新港町5番2号)
■主催 : 神戸市(港湾局 計画部 港湾計画課)
■演題 : 松方コレクションと鈴木商店 ~盟友の夢を支えた金子直吉~
【小林由佳氏プロフィール】
神戸新聞論説委員。1990年神戸新聞社入社。淡路総局、社会部、北摂総局、文化生活部、経済部の記者を経て、2014年3月~17年2月経済部長兼大阪編集部長。2017年3月より現職。地域経済、社会保障、教育問題などをテーマに社説やコラムを担当している。2016年4月から紙面で1年間連載した「遙かな海路~巨大商社・鈴木商店が残したもの」の取材班の1人。
講演会は主催者である港湾局 計画部 港湾計画課・田中謙次係長の司会で始まり、小林氏のプロフィールと演題が紹介されました。
小林氏の講演は「松方コレクション」の概要の解説から始まり、川崎造船所社長にして神戸新聞社の初代社長でもあった松方幸次郎が大正初期(大正5年)から昭和初期にかけて私財を投じ欧州(ロンドン、パリを中心に)にて1万点を超える美術品を収集したこと、これら美術品の購入に当たっては鈴木商店の大番頭・金子直吉の多大な支援があったこと、松方の美術品収集は川崎造船所の創業者・川崎正蔵が「川崎美術館」を設けたほどの美術品収集家であったことに少なからず影響を受けているかもしれないことなどが紹介され、続いてコレクションの全体像について順次解説がなされました。
1.なぜ、松方は美術品の収集に乗り出したのか?
「本物の西洋美術に直接触れたことのない日本人のために、美術館の門戸を開きたい! これは、おいの終生の仕事じゃ」 「労働者の啓発とは、心理的にも微妙なものがある。その意味で、絵画は観る者の心理作用に非常な影響を与えるものであり、国家のためと心得て収集したのじゃ」
松方幸次郎(左の写真)は、見る者を揺り動かす力がある"本物"の西洋画を日本の貧しい画学生や先進国の文化を知らない一般大衆に見せてやりたい、また、日本の労働者に西洋画を見せることにより彼らの修養の乏しさを克服したい、日本政府にその気がないのなら自分がやってやろうと考え、「国のため」と心得て西洋美術品の収集に取り組みました。
2.鈴木商店の大番頭・金子直吉が松方をバックアップ、鈴木商店ロンドン支店には松方の専用室も!
「美術品は思いきり立派なものを集めてくださいよ!」(金子直吉)
「君、そこからここまで全部でいくらかね」(松方幸次郎) ステッキで指し示したのは壁にかかる絵画すべてである。
第一次世界大戦が激しさを増してきた大正5(1916)年、松方は4度目の海外出張に当たり、盟友・金子直吉の全面的なバックアップにより鈴木商店ロンドン支店の一室をビジネスの拠点とし、ストックボート(見込生産方式で建造する規格船)を大量に売り捌き、川崎造船所は巨利を得ました。
鈴木商店もまた、ロンドン支店の高畑誠一の活躍により大戦中に鉄、船舶、食料などの物資を連行国等に大量に販売し、大躍進を遂げました。
高畑誠一と、かつて鈴木商店ロンドン支店があったシティのミンシングレーン
松方は高畑の協力を得て、自社のビジネスと並行して美術品の購入を開始しましたが、その買いっぷりは余人には真似のできない豪快なものでした。
3.松方は日本での本格的な西洋美術館の建設を目指した
大正5(1916)年、松方はロンドンでベルギー生まれの画家にして建築家でもあるフランク・ブラングィン出会うと二人はたちまち意気投合し、ブラングィンは松方の美術品収集のアドバイザーになります。
松方はブラングィンに勧められるままに大量の美術品を買い進めながら、それらの作品を日本に持ち帰り、当初は神戸にと考えていましたが最終的には東京・麻布仙台坂の松方家の土地に本格的な美術館(「共楽美術館」と命名していました)を建設すべく、ブラングィングに美術館の設計を依頼しました。しかし、その後の川崎造船所の経営悪化によりこの構想が実現することはありませんでした。
※上の画像は「共楽美術館構想俯瞰図」です。
4.コレクションは歴史に翻弄され、流転した
松方が日本に持ち帰ったコレクション(約1,350点)のうち多くは川崎造船所の経営悪化に伴い同社の主力行・十五銀行の担保に供され、度重なる「松方売立」により売却され散逸してしまいます。また、ロンドンのパンテクニカン倉庫に預けていたコレクション(約950点)は第2次世界大戦中の昭和14(1939)年に火災により大半が焼失しました。
パリに残されていたコレクション(400点以上)は第二次世界大戦の末期にフランス政府により敵国人財産として差し押さえられ、同政府の所有となります。
しかし、日本政府は昭和26(1951)年9月8日のサンフランシスコ講和条約締結の際に、フランス政府にコレクションの返還を申し入れ、鋭意交渉を進めました。
その結果、返還の条件としてコレクションを受け入れる美術館の創設が求められたことから昭和34(1959)年3月、フランスの建築家ル・コルビュジエの設計による国立西洋美術館(左上の写真)が東京・上野に建設され、375点のコレクション(絵画・素描・版画300点、彫刻62点ほか)が返還されました。
5.鈴木商店がコレクション収集の資金を立て替え コレクションと鈴木商店の支援の総額は?
当時松方は、若手美術史家の矢代幸雄(後・西洋美術史の大家、文化功労者)に次のように語っています。
「自由に使える金が3千万円(現在の565億円)できた。私はそれだけ油画を買って帰り、日本のために立派なコレクションをつくりたい」
一方で、東洋美術商・山中商会のロンドン支店長・岡田友次のメモによると、「鈴木商店ロンドン支店が『松方氏勘定』としてロンドン52万ポンド、パリ20万ポンド(総額で現在の約150億円)を立て替えた」とされています。
※上の写真は大正10(1921)年、松方がパリ郊外・ジヴェルニーのクロード・モネのアトリエを訪れた時のモネと松方です。大正10年以降、松方は有名な「睡蓮」ほか多くの作品をモネから直接購入しました。
後記国立西洋美術館の「松方コレクション展」では、資料として「レオンス・ベネディット(*1)から鈴木商店宛の手紙の控」や「鈴木商店からレオンス・ベネディット宛の手紙の控」が展示されましたが近年、同美術館により鈴木商店の松方への支援を裏付ける新資料(小切手と支払通知書)が発見されました。
当記念館が国立西洋美術館発行の「松方コレクション西洋美術全作品」第1巻(絵画)および第2巻(彫刻・素描・版画・工芸その他)により鈴木商店が立て替えによりベネディットに支払った作品の金額を一件ずつ拾い出して計算したところ、合計約300万フラン(約30億円)に上りました。
しかし、松方自身が購入した作品や別のルートで購入したコレクション、パンテクニカン倉庫の火災により焼失した在英コレクション(約950点)、パリの宝石商・アンリ・ヴェベールから一括購入した浮世絵(約8,000点)(*2)等の購入資金について鈴木商店の協力・関与があったかどうかは未だ不明です。
※上の写真は、国立西洋美術館前庭のロダン作「地獄の門」です。[ご参考]
(*1)松方がブラングィンから紹介されたレオンス・ベネディットはリュクサンブール美術館(当時のフランスの国立近代美術館)の館長で、ロダン美術館館長を兼ねており、フランス美術界の権威でした。松方はベネディットの勧めに従い、オーギュスト・ロダン作の彫刻を次々に購入する一方で、松方がパリで収集したコレクションはパリのロダン美術館に保管されました。
(*2)浮世絵(約8,000点)は皇室への献上を経て、現在「東京国立博物館」に保管されています。
松方の美術品購入に当たり、鈴木商店ロンドン支店(支店長・高畑誠一)は鋭意支払資金立て替えの便宜をはかっており、鈴木商店の支援なくして大量の美術品の収集は成し得なかったかもしれません。
6.国立西洋美術館が開館60周年を記念し、原点である「松方コレクション」を特別展示
今年6月11日から9月23日まで東京・上野の国立西洋美術館において、開館60周年記念として「松方コレクション展」が開催され、内外の作品155点と関連資料が公開されました。
なお、このコレクション展では戦後長らく所在が不明で、平成28(2016)年にパリのルーヴル美術館の収蔵スペースの一角で奇跡的に発見され、国立西洋美術館に寄贈されたクロード・モネの幻の大作「睡蓮、柳の反映」(縦2メートル、横約4.25メートルで、上半分が欠損していました)が1年にわたる修復を経て、初めて披露されました。
※左のチラシに掲載されている絵画は、フランス政府から返還されなかったコレクションの一つ、フィンセント・ファン・ゴッホの「アルルの寝室」(オルセー美術館蔵)です。
なお、平成28(2016)年にはロンドンのパンテクニカン倉庫の火災により焼失した作品のリストが新たに発見され、その総数が約950点であったことが判明するなど最近の国立西洋美術館の調査により新たな発見が相次いでいます。また、同美術館は平成31(2019)年にエドゥアール・マネの油彩「嵐の夜」を購入するなど、コレクションを順次買い戻しています。
7.神戸開港150年を記念した「松方コレクション展」
去る平成28(2016)年9月17日~11月27日、神戸開港150年のプレイベントとして神戸市立博物館において「松方コレクション展 ~松方幸次郎 夢の軌跡~」が開催され、彫刻・浮世絵を含む内外140点の作品が公開されました。
この時、川崎造船所関連の写真・資料をはじめ、鈴木よね・金子直吉の胸像、天下三分の宣誓書など鈴木商店関連の展示品も公開されました。
※上のチケットに掲載されている絵画は、前記ブラングィンにより描かれた「松方幸次郎の肖像画」です。[ご参考]
8.フランスとのコレクション返還交渉に尽力したのは ・・・・
昭和26(1951)年9月8日、首席全権・吉田茂首相はサンフランシスコ講和条約の締結を終えると、すぐにフランスの主席全権・ロべール・シューマン外相の宿泊していたホテルの一室を訪れ、次のように切り出しました。
「松方幸次郎が買い求めたコレクションがフランスに残っています。それを是非とも日本へ帰していただきたい」
これを機に、フランス政府との間で「松方コレクション」の返還交渉が始まりました。
9.松方と金子 響き合った2人
「『国のため』と決断力と行動力を発揮した」「事業だけでなく、文化をも現代に残す」 「本人たちにとってはいずれも日本人としての『仕事』だった」
※左の写真は、日米船鉄交換契約締結後に行われた駐日大使、ローランド・S・モリス一行の歓迎会の様子です。(大正7年5月28日、於:神戸・常盤花壇、モリスは中央列右から3人目、その左に外国人1人を挟んで金子、後列中央日本髪の女性の左に松方)
「国のため」との気概に燃える金子は滞英中の松方と緊密に連携をとり、政府間交渉では不調に終わり危機的状況に陥りつつあったわが国の造船業界を救うべく、自ら先頭に立って民間交渉を推進し日米船鉄交換契約の締結を実現させました。
10.松方三郎(幸次郎の弟、後に幸次郎の養子となった。元共同通信専務理事)の言葉
「人を人とも思わぬようなところもあった幸次郎が、金子さんだけには一目も二目も置いていたようだった。・・・・ 金子さんの場合も幸次郎の場合も、実業家としての末期において世間が与えた待遇は今から考えれば大いに問題であろうが、この二人の優れた実業家が種をまき、育てた事業がいずれもその後大いに伸びていっている事実を見るとき、こんなことは問題にするにも値しないような気がする」
生い立ちが全く異なる対照的な二人でしたが、強い国益志向など実業家としての共通点が多かった二人は馬が合い、終生親密な関係を続けました。
当日は、あらかじめ予約を申し込まれた90名余(関係者を含む)の方に参加をいただき、参加者は「松方コレクション」の全体像、コレクションの購入に当たり鈴木商店による全面的な支援があったこと、松方幸次郎と金子直吉の肝胆相照らす関係など、数々のエピソードを交えた小林氏の解説に熱心に耳を傾け、大好評のうちに終了しました。
なお、今回の講演会には来年9月20日(日)に開催が予定されている羽幌炭砿閉山50周年記念イベント「羽幌炭砿三山大集会」の主催者・羽幌炭砿ファンクラブの関係者3名が北海道から参加されました。会場には関連のポスターが掲示されるとともに、参加者の皆様には同イベントに関するチラシ等が配布され、講演会の終了後には同ファンクラブの三浦義之氏より羽幌町(北海道苫前郡)およびイベントの概要が紹介されました。
"羽幌炭砿"については、次の地域特集をご覧下さい。
また、司会の神戸市・田中係長より最終回となる第4回講演会(来年2月15日開催)の紹介とあわせて、来年4月17日(金)~19日(日)の3日間、神戸にて劇団LiveUpCapsulesによる金子直吉を中心とする鈴木商店の社員たちのエネルギーがほとばしり出るような熱い舞台「彼の男 十字路に身を置かんとす」が再演されることが紹介され、同公演のチラシ(下記の関連資料ご参照)が配布されました。
■第4回講演会の開催について
第4回講演会は令和2(2020)年2月15日(土)14:00~15:00、市原猛志氏(九州大学大学文書館協力研究員・博士[工学]、北九州市門司麦酒煉瓦館館長)による講演(演題:北九州産業遺産と鈴木商店関門コンビナート ~日本遺産"関門ノスタルジック海峡"と鈴木商店鉱滓煉瓦による建物群~)を予定しています。
講演会のお申込みにつきましては、神戸市の広報誌"KOBE"や同市ホームページの記者発表資料などをご覧下さい。
下記の関連資料、関連リンクもあわせご覧下さい。