辰己会・会報「たつみ」シリーズ⑥「第6号」をご紹介します。
2020.5.29.
たつみ第6号は、前号と同じ昭和41年末に発行されました。(昭和41年12月1日)翌昭和42年には鈴木商店破綻から40年を迎え、記念行事を予定していることから、特集以外の記事を第6号として前倒しに発行したものと思われます。
本号の表紙を飾るのは、明治7年5月神戸~大阪間国鉄開業に当たり、鉄道寮(工部省鉄道寮;鉄道局の前身)発行の「国鉄開業当時の時刻表並びに運賃表」で、神戸~大阪間主要駅(神戸、三宮、住吉、西宮、神崎、大阪)列車発着時刻と運賃が表示されているのが読み取れます。
会員の投稿のほか、「辰巳会だより」として、昨年に引き続き会員叙勲並びに褒章の受賞祝賀会の模様が報告されています。
◇「満州小麦の欧州向け輸出の思い出」 田中 実
筆者は、大正9(1920)年当時、鈴木商店大連支店にて大豆、小麦等の穀物の取扱いをしていた折、第一次世界大戦後の欧州各国は食料不足が甚だしく、鈴木商店ではロンドン支店・高畑支店長の采配により各種食料の売込みに傾注していた。こうした折、大連支店に本店より満州小麦の引き合いを皮切りにロンドン支店からも欧州向け注文が相次ぎ、大正9年初夏より大正10年初春までの約11か月に30余万トンの小麦の大量成約に成功。
大正9年夏の第1回積み出しの際は、川崎汽船のストックボート45隻が一斉に来航、大連港外で沖待ちする程船積が続いた。こうした小麦満載船が8,9か月間、30数隻が次々と大連港から欧州に向かう様は圧巻であった。大戦前までは大連港から日本向けに年間数千トンの小麦を積み出すのが精々であったが、桁違いの量であった。満州小麦の大量輸出は、空前絶後だったと筆者は回想している。(詳細は下記の関連資料よりご覧ください。)
◇「米騒動余談」 木畑竜治郎
大正7(1918)年8月12日に勃発した米騒動により鈴木商店本店は焼き打ちされ灰燼に帰した。前日来、北陸、名古屋、京都等各地の米騒動の情報は、刻々新聞の報ずるところとなり、鈴木商店においても万一に備え、警戒を強めていた。
本店燐寸部主任の西岡勢七は、金子直吉の許可を得て、その腹心の部下木畑光治郎(筆者の父)に命じて警備の壮子(助っ人)数十名をかき集めさせた。木畑は、旧知の大阪の上田安次郎なる"親分"を頼ったところ、鉄砲玉40余名が集まり、神戸に向かった。しかし、竹槍、太刀等の武器を隠し持っていたことから県警、軍隊に大半が拘束されてしまい、辛うじて丸腰の者15名ほどが本店に馳せ参じたが、群衆の前に為す術なく本店は無惨な姿となってしまった。後日、西岡は、相生警察へ拘束された者の身柄引取りに再三足を運んだという。(詳細は下記の関連資料よりご覧ください。)
◇「わが心の自叙伝(3)終章」 金子 武蔵
「わが心の自叙伝」終章では、須磨一の谷山荘時代、隣家のドイツ人・シュトレーロー家の人々との交流から始まります。高等学校在学中の筆者は、隣家の幼い子供たちを通じてシュトレーロー夫妻とも親しくなり、ドイツの文化や思想へ筆者を向かわせた要因の一つだったと述懐している。
また筆者の故郷と強いて云えば須磨であるが、親類は一軒もおらず、隣人との付き合いもほとんど無かった。そのため、父・直吉は、子供の教育のため兄・文蔵を小学1年の時、筆者・武蔵を6年の時、高知に転学させた。高知では、父の弟・楠馬叔父や母の郷・傍士家などとの生活を通じて旧城下町の生活に触れることはできたが、子供の成長に有益な親族や隣人を持てなかったのは、不幸なことであった。
しかし、それらに準ずるものが鈴木家であった。お家さんを始め鈴木家の人々は、筆者を身内のように迎えてくれ、よく栄町4丁目のご本家や敏馬の海岸の別邸に遊びに行った。また、筆者の一の谷時代には、岩治郎夫妻が住む塩屋の御宅にはよく招かれて泊めていただいた。その後、大正12年頃には鈴木家の本邸は、須磨大手に移られていたが、ある日、お家さんが、お孫さんたちを連れて一の谷山荘に来られ、ご一家の方々と楽しく過ごしたことを懐かしく記している。折しも鈴木商店の敗色は色濃く、この日は鈴木家、金子家の年来の祝福に決別した斜陽の宴でもあったと感慨深い言葉で結んでいる。 (詳細は、下記の関連リンク(人物特集>金子直吉>関連トピックス)よりご覧ください。)
昨年に引き続き辰巳会会員3名が叙勲並びに褒章を受賞されたのを記念し、受賞者の祝賀を兼ねた例会が開かれ、80名の出席者があった。高畑会長から祝辞が述べられ、続いて世界情勢と日本の経済についての考えを披歴された。(昭和41年11月8日)
〇中井義雄 勲三等瑞宝章
〇花井嘉夫 藍綬褒章
〇柳田彦次 藍綬褒章