辰巳会・会報「たつみ」シリーズ⑯「第16号」をご紹介します。
2020.12.8.
「たつみ第16号」は、昭和47(1972)年1月15日に発行されました。同号の表紙裏には、昭和天皇が皇太子時代の大正10(1921)年当時、欧州歴訪の途次、英国に滞在中に鈴木商店ロンドン支店長・高畑誠一を始め日本人駐在員の企画によりロンドンのゴルフ場を訪れた陛下のスナップ写真と自ら"老齢75歳"と記すお家さんの直筆の句が紹介されています。(下記の関連資料をご覧ください。)
また、辰巳会会員の念願だった「金子直吉遺芳集」が辰巳会本部により刊行されたことが報告されています。本遺芳集については、毎日新聞、朝日新聞が相次いで書評を載せています。
さらに本号の特集記事として過年、経済学者・安藤良雄氏が発表した鈴木商店に係わる論文の一部を掲載しています。
◇「既成財閥か、成金財閥かー大いなる失敗者鈴木商店ー」安藤良雄
大正から昭和にかけての日本経済、戦時経済に関する研究に実績を残した経済学者で東京大学名誉教授の筆者が、同大学教授時代の昭和43(1968)年にビジネス誌"エコノミスト"に発表した論文。
既成財閥の三井・三菱に挑戦した鈴木商店が新興財閥として形成されて行く過程を分析し、新興コンツェルンの先駆的形態と捉え、鈴木を「成功者」であるとともに「大いなる先駆者」と評価する。
然し、鈴木商店の破綻に至る末期については、一転して「大いなる失敗者」と厳しく切り捨てているが、この後半部分については、転載されていない。(詳細は、下記の関連リンクをご覧ください。)
◇「浪華倉庫と帝人事件(3)」広岡一男
鈴木商店破綻により台湾銀行の管理下に置かれた浪華倉庫の下関支店長であった筆者は、当時、在京得意先訪問のため年2回は上京し、その都度台湾銀行に業況報告に訪れていた。こうした折、帝人事件(昭和9(1934)年)が勃発し、浪華倉庫の命運に赤信号が点灯した。
台湾銀行の担当責任者によれば、浪華倉庫が相応の業績を挙げている限り台銀は浪華を手放すことはないとの発言があったが、結局は身売りされることになった。
当時の浪華倉庫の業容、保管貨物残高推移、利益金、株主配当率から見ても大手倉庫会社と遜色なく、依然全国有数の倉庫会社であった。台銀の主導により渋沢倉庫への吸収合併に進むことになるが、台銀の選んだ真相は知る由もない。(詳しくは、下記の関連リンクをご覧ください。)
大正4(1915)年、鈴木商店に技術者として入社した筆者は、直営の「鈴木化学試験所」を振り出しに「日本金属・大里精錬所(現・彦島精錬(株))」、「兵庫製油所(後の合同油脂を経て現・日油)」、「王子工場(同、現・日油)」等で研究に没頭していたが、或る時、兵庫製油所を視察に見えた金子直吉から直々にニッケル触媒について質問を受けた。爾来、直接間接に金子に接する機会を得たが、金子の旺盛な事業欲に敬服したと思い出を綴っている。
◇「サラワク現地の哀歓」宇津木亥一
大正11(1922)年夏から大正15(1926)年12月までスラバヤ(インドネシア・東ジャワの州都)に勤務した筆者は、昭和17(1942)年、金子直吉の命により「日沙商会」に入る。
ボルネオ・サラワク王国での大規模ゴム園経営を進める同社は、太平洋戦争勃発により一大転換を迫られ、わが国の占領政策に従い、ゴム一辺倒から新たに水銀、錫、石炭、ダイヤ、木材、染料等の重要開発事業に舵を切らざるを得なくなった。
北ボルネオ攻略に向かう陸軍船団の誘導に協力したことから、現地占領事業の殆どを日沙が任されることになった。中でも銃砲弾発火に欠かせない水銀の廃坑山の再開発が最重要事業であった。
その後、戦局が悪化する中、筆者はクチン軍司令部との事務連絡の為、同司令部の移動に合わせクチン、ブルネイ、クチンと転進の末終戦を迎えた。言語に絶する辛酸を嘗め、死線を越えて昭和21(1946)年、祖国日本に送還された。(詳細は、下記の関連リンクをご覧ください。)