辰巳会・会報「たつみ」シリーズ⑰「第17号」をご紹介します。
2021.3.18.
「たつみ第17号」は、昭和47(1972)年8月1日に発行されました。同号表紙裏には、サラワク三代目国王ラジャ・ヴァイナー・ブルック夫妻一行と日沙商会幹部の記念写真が、裏表紙裏には、昭和47(1972)年5月11日、138名の会員の出席の下開催された辰巳会全国大会の記念写真が掲載されています。
「辰巳会だより」には、本部新年例会(1月21日、於神戸ニューポートホテル)、全国大会(5月11日、於京都国際ホテル&二条城)、東京支部新年例会(1月18日、於築地スエヒロ)などの模様が報告されています。特に東京支部新年例会には、鈴木商店で経理一筋に歩んだ賀集益蔵氏が辰巳会発足以来初めて例会に出席し、時局について所感を述べているのが注目されます。
昭和7(1932)年2月16日夜、筆者が金子直吉より直接聞いた鈴木商店および鈴木家にまつわる秘話、エピソードを述懐している。
先代鈴木岩治郎の出生から創業に至る経緯、金子直吉の入店当時の主人岩治郎の厳しい指導、岩治郎が脳溢血で倒れ、本家筋の大阪藤田助七商店へ見習いに出していた長男・徳次郎(後の二代目岩治郎)を呼び戻し、後にロンドンへ修行に出したこと、三男・岩蔵を米国に留学させたこと等の逸話を金子から聞かされた。
◇「浪華倉庫と帝人事件(最終回)」廣岡一男
昭和8(1933)年12月1日、浪華倉庫は台湾銀行の主導により渋沢倉庫に吸収合併された。渋沢倉庫は、歴史も古く、業界の名門ながら業容的には三井・三菱・住友の三大倉庫会社に及ばなかったが、浪華倉庫との合併により、経営規模は一挙に倍加し、三大倉庫に伍して四大倉庫と称されるようになった。
浪華倉庫の役職員は全員渋沢倉庫に引き受けられ、人事についても概ね公平に扱われた。浪華倉庫下関支店長だった筆者は、本店営業部長代理に任じられ、後に常務取締役に選任された。(詳しくは、下記の関連リンクをご覧ください。)
◇「父母の思出」平高弥之輔
親子二代に亘って鈴木商店に勤めた筆者が、父・平高寅太郎について思い出を綴っている。台湾赴任前の筆者家族は、東川崎町にあった社宅に居住し、筆者(当時3歳)は母に連れられてよく栄町四丁目の本家を訪れた。母は、お家さんやご寮人さん(二代目岩治郎夫人)に気に入られていたようだった。
父・寅太郎28歳の時、満州(大連)に支店開設の命を受けて北京に赴き清朝政府と折衝し、支店開設の許可を得た。その後台湾に渡り、領台後の台湾での勤務を希望し、金子(直吉)・柳田(富士松)両氏の許可を得て台湾駐在員となった。
筆者が父の台湾駐在中の思い出のなかで一番記憶に残るのは、明治42(1909)年清国の孫文の日本への亡命に鈴木商店が密かな役割を果たしていたこと。父・寅太郎は、金子の指示を受け孫文のための資金を平高個人名で台銀より借り入れ、当時の北京の日本大使館参事官・吉田茂に手渡して孫文の亡命が実現したとの秘話を明かしている。金子直吉は、同郷の後輩・吉田からの要請を受けて協力したもの。(詳しくは、下記の関連リンクをご覧ください。なお、掲載の"たつみ誌"に筆者について、「平高弥之助」とあるのは正しくは「平高弥之輔」、また「平高憲太郎氏長男」とあるのは誤植、正しくは「平高寅太郎氏長男」)
◇「東京辰巳会に於ける賀集益蔵氏所感」
春の東京辰巳会が4月11日、小石川後楽園内"涵徳亭"に於いて東京在住会員46名の出席の下に開かれ、辰巳会発足以来初めて賀集益蔵氏が参加された。鈴木商店では経理畑一筋に活躍し、鈴木破綻後は金子直吉の下で残務整理の後、新光レイヨン(後の三菱レイヨン)の社長、会長を歴任した同氏は、長く繊維業界でも実績を残した。
繊維業界や政府の公的機関委員の経験を通して感じてきた我国とアメリカのそれぞれの社会問題や相対的な関係について所感を紹介しています。(詳しくは、下記の関連リンクをご覧ください。)
愛媛県宇和島市名誉市民・大宮庫吉氏が昭和47(1972)年1月19日、85年の生涯を閉じた。同氏は、鈴木商店傘下の「日本酒類醸造」の前身の一つ「日本酒精」に入社、後に技術者として一世を風靡した「日の本焼酎」を開発し、日本酒類醸造(宇和島)を育て上げたが、鈴木商店系の大里酒精との合併を機に京都の「四方合名」に移り、後の「宝酒造」に発展させた。
大宮氏が日本酒類醸造(宇和島)時代、北陽花街の美妓と恋に落ちて、借金をしてこの美妓を身請けした際の証文が地元の某家に家宝として残されていたことがこの程明らかになったという。この身請けした女性こそ大宮夫人であると。
大宮庫吉氏は、鈴木系となった新生「日本酒類醸造」に籍を置くことはなかったが、後年、辰巳会会員として鈴木商店関係者との交遊を続けた。たつみ第17号には、会員物故者の一人として同氏の名前が掲載されている。