辰巳会・会報「たつみ」シリーズ㉑「たつみ第21号」をご紹介します。

2021.6.9.

第21号表紙.png たつみ第21号は、昭和49(1974)年8月10日に発行されました。巻末には、昭和13(1938)年7月5日に起こった神戸大水害の珍しい写真が掲載されています。台風による梅雨前線の影響から神戸市内に集中豪雨が発生し、死者616名、被災家屋9万戸の大災害となったと報じられています。

 宇治川沿いの三越百貨店、向かいの三菱銀行神戸支店周辺の惨状の中に、かつて東川崎町にあった鈴木商店跡がはるかに望めます。(下記の関連資料をご覧ください。)

◇「父を語るの記」柳田義一

 たつみ誌編集人で、金子直吉と共に番頭として創業期の鈴木商店を牽引した柳田富士松の長男の筆者が、亡き父を偲び故人がその養父の元から鈴木商店への入店のいきさつ等知られざるエピソードや祖父(松原)恒七の残した興味深い家言などを披歴している。(詳細は、下記の関連リンクをご覧ください。)

◇「斉藤茂吉と巌流島の鈴木商店」黄旗亭

 "黄旗亭"のペンネームでたつみ誌に熱心に投稿する木畑龍治郎氏が、明治から昭和にかけての"アララギ派"歌人で精神科医の斉藤茂吉の紀行文(斉藤茂吉全集第7巻)の一節に関門海峡に浮かぶ「巌流島と鈴木商店」のくだりがあることを聞いた。「"神戸鈴木造船所"の立て札が見えている」と記されている。

 鈴木商店と三菱(合資)がこの地(彦島江ノ浦地区)に造船所の建造をめぐって競い合い、三菱が勝利し後の三菱重工下関造船所に発展、敗れた鈴木商店は、後に兵庫県相生に播磨造船所を建設することになる。(詳細は、関連リンクをご覧ください。)

◇「巨人、依岡省輔氏の片鱗」竹崎茂助

 明治44(1911)年、高等小学校卒業を待たず14歳で神戸製鋼所に入社した筆者が、当時実質の経営を担っていた依岡省輔(専務)、田宮嘉右衛門(常務)両氏には親しく接して貰った。(「たつみ第18号」"大正時代の神戸製鋼")

 大正11(1922)年、依岡氏より同氏が社長を兼務する「日沙商会」への転籍を強く要請され、以来日沙商会を通じて依岡氏との関係が深まった。依岡氏の風貌はさることながら、それを上回るスケールの大きな人柄は、正に"巨人"と云われるほどのけた外れの人物だった。

 依岡氏が鈴木商店入店に際して、金子直吉との面接の様子、誰もが驚くほどの健啖ぶり、賓客のもてなしに関わる逸話など同氏の人柄の片鱗が随所に見られた。(詳細は、関連リンクをご覧ください。) 

◇「『カネタツ』マークと私との絆」中村勇吉

 大正6(1917)年、関西学院高商部を卒業して鈴木商店に入社した筆者が、その社会人生活が鈴木商店の商標「カネタツ」マークと直接・間接に切り離せない絆に結ばれていたと50余年の思い出を綴っています。

 入社翌年、憧れの海外駐在(シアトル)に赴く前、薄荷・樟脳部長の楠瀬正一氏からカネタツマークの薄荷脳、油の北米市場での拡販を要請されて以来、薄荷を通してカネタツマークと共に歩んだ歴史を振り返っています。

 二度目の赴任地・ニューヨークで鈴木商店の破綻の悲報に遭遇、取引先マケッサン&ロビンズ社の経営者に救われ、同社に入社しやがて同社の日本事務所を神戸に開設した。この日本事務所は世界大戦後、"中村商店"を経て楠瀬氏が率いる"鈴木薄荷"と統合し、筆者は鈴木薄荷の経営に携わることになった。(詳細は、下記の関連リンクをご覧ください。) 

◇「<たつみ 春秋抄>第五話」黄旗亭

 大正7(1918)年8月の宇治川(東川崎町)の本店焼打ちから2年半、大正9(1920)年12月20日過ぎ、旧居留地の海岸通り10番地に竣工した本店社屋への移転が始まった。新社屋は、3階建てレンガ造り、外装を白亜のタイルで化粧した堂々たる威容で、筆者は1階北側隅を占める保険部での業務を再開した。

 鈴木商店絶頂期の余韻が残るこの頃、二人の偉人・西川文蔵支配人と竹田儀一氏に大きな変動があったことが忘れられない。(詳細は、関連リンクをご覧ください。) 

◇「金子翁三十年祭祝詞」福田義文

 昭和19(1944)年2月、享年77歳の生涯を閉じた金子直吉の没30年祭が昭和49(1974)年1月21日、神戸・生田神社で執り行われ、同神社・福田義文権宮司による祝詞(のりと)が奏上されました。(詳細は、下記の関連リンクをご覧ください。) 

◇「田中四郎氏の追想録」久琢磨

 鈴木商店の土佐派を自認する筆者が、神戸高商の後輩で、同じ相撲部で活躍し、鈴木商店では金子直吉の信頼も厚く、将来は鈴木の大幹部必定と見られていた田中四郎氏が、終戦の年の春、出征し朝鮮で終戦の当日悲愴な戦死を遂げた故人を偲んで追想を寄せている。(詳細は、関連リンクをご覧ください。)

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