鈴木商店こぼれ話シリーズ㊺「離れ小島と鈴木商店」をご紹介します。

2021.1.31.

 鈴木商店は、創業期多角化を進める中で一時期離れ小島を所有していたことが知られている。一つは、今日"ミキモト真珠島"として有名な鳥羽湾に浮かぶ「旧相島(おじま)」、もう一つは、関門海峡に浮かぶ「船島」("巌流島"として有名)。いずれも短期間の所有であったが、造船事業に乗り出す鈴木商店と関わりのあった小島である。

1.真珠島と鈴木商店

 i-img600x392-1605099562lpfwks507鳥羽造船所と相島.jpg鳥羽湾に浮かぶ小島・ミキモト真珠島は、元々は「相島(おじま)」と呼ばれていたが、明治26(1893)年、御木本幸吉がこの相島で世界で初めて真珠の養殖に成功し、爾来ここで真珠の養殖事業を始めた。

 大正5(1916)年、御木本幸吉など地元民の懇請を受け旧鳥羽造船所の救済に乗り出した鈴木商店は、新たに「(株)鳥羽造船所」を設立して本格的に再建に着手。鳥羽造船所は、その後、鈴木商店の造船、海運事業の集約化のため播磨造船所と共に帝国汽船に吸収され、帝国汽船・鳥羽造船工場として運営されていた。(画像は、相島と対岸(画像右部分) の鳥羽造船所風景)

 大正8(1919)年、鳥羽町は相島の海面埋め立ておよび相島の使用権を帝国汽船に売却。鈴木商店の相島の実質所有は、昭和2(1927)年、鈴木破綻により鳥羽町が帝国汽船より買い戻すまでの8年間に及んだ。

 昭和4(1929)年、鳥羽町は再度、相島を御木本幸吉に売却、御木本による本格的な養殖事業が始まった。昭和26(1951)年、レジャー施設として「御木本真珠ケ島」が開場、昭和46(1971)年、全島を「株式会社御木本真珠島」が経営するところとなり、島名を「ミキモト真珠島」に変更し現在に至っている。

2.巌流島と鈴木商店                                                                

 巌流島.png下関市の彦島・江の浦東岸250m沖合の関門海峡に浮かぶ小島「船島」は、北端に小山があるほかは平らな島で、現在は無人島。この島で、慶長17(1612)年4月13日に宮本武蔵と佐々木小次郎が決闘し、敗れた佐々木小次郎の流儀"巌流"をとって「巌流島」と呼ばれるようになった。

 門司(大里)で大規模開発を進める鈴木商店は、門司が手狭になったこともあり、対岸の彦島の東側の江の浦地区への進出を計画する。「船島」を買収し、彦島江の浦地区に造船所の建造を予定するも、同地区に造船所の建設を計画する三菱(合資)と競合、「地先海面埋立許可権」を巡って激しく競い合った結果、三菱に埋立許可が与えられた。

その結果、鈴木は彦島の西北部に位置する西山地区への進出に舵を切り、大里・彦島地区に一大コンビナートの建設を進めることになる。なお、江の浦での造船所建設を断念した鈴木商店は、兵庫県相生での播磨造船所に注力することになった。一方、三菱は江の浦に造船所建設を進め(大正3(1914)年開業)、同造船所は、後の三菱重工下関造船所に発展した。

 船島(巌流島)が一時期鈴木商店の所有だったことは、明治から昭和にかけての"アララギ派"歌人で精神科医の斉藤茂吉の紀行文(斉藤茂吉全集第7巻)に見られる。同紀行文に「巌流島」と題する一節があり、大正10(1921)年10月26日、江の浦から船で島に上陸した斉藤茂吉が島を散策し「"神戸鈴木造船所"の立て札が見えている」と記されている。大正3(1914)年、三菱との競合に敗れた鈴木商店は、その後も暫くの間、巌流島を所有していたものと思われる。

 

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