「日本工具製作(現・日工)の歴史②」を掲載しました。
2020.12.24.
「日本工具製作」(現・日工)の歴史を紹介する2回目です。
会社創立直後から独り新工場の建設に全力を傾注していた奥田良三でしたが、当時全世界で流行していた「スペイン風邪」(今で言う「インフルエンザ」)に罹り専務就任わずか5か月後の大正9(1920)年1月4日、新工場の落成(大正9年2月竣工)を見ることなく忽然として亡くなってしまいます。
大正9(1920)年2月1日、奥田の突然の死去を受け、鈴木商店本店工事部用度課長から鈴木商店傘下の日本金属大里製錬所の経理部長へ転任していた当時まだ27歳の矢野松三郎が、急遽代表取締役専務に就任しました。
大正9(1920)年4月1日、新工場(第一工場)で生産されたショベル(商標は「トンボ印」)が市場に販売されるのとほぼ時を同じくして、わが国は第一次世界大戦終結に伴う恐慌ともいうべき反動不況に陥り、工具類の需要は激減しました。
当初、同社は製品の販売に関しては鈴木商店の支店・出張所を利用する計画でしたが全く成果があがらず、販売方法について検討を重ねている間にも景気は一段と悪化し、売れ行き不振は増すばかりで売掛金の回収も困難になり、金融も逼迫の度を増すばかりでした。
上の写真は、当時の第一工場です。
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