「日本工具製作(現・日工)の歴史③」を掲載しました。
2021.1.8.
「日本工具製作」(現・日工)の歴史を紹介する3回目です。
吉本亀三郎、土屋新兵衛の両相談役は鈴木商店の本務に追われて日本工具製作の経営に携わることがままならなかったことから大正10(1921)年4月10日、専務の矢野松三郎自身の希望もあって監査役で最年長者でもあった辻泰城(当時辻は70歳でした)が同社の初代社長に就任しました。
他の役員たちの辻に対する期待は大きな活躍を望むものではなく、長老として矢野専務の若さを補うという程のものでしたが、武士気質の厳格な性格であった辻は頻繁に出張して販路の拡大に努め、また縁故をたどって各方面に進出をはかるなど力の限りを尽くして奮闘し、大きな功績をあげました。
大正12(1923)年9月1日、関東大震災が発生し一時的には被災地復興のため工具類の需要が増加したものの、その後の政府の緊縮財政による震災復興計画の繰り延べに加えて一般の産業も不振を極め、土木工事の停滞のため注文が減少し、さらに思惑的な投売物が出て工具類の相場が崩れ、同業者間の競争が激しくなり惨憺たる状態に陥りました。
同社の業績は赤字が続き、大正12(1923)年下期に配当を実施したのを最後に6年間無配を続けることになります。同社は辻社長、矢野専務を陣頭に社員一丸となって経費削減、業務の効率向上に努め寝食を忘れて奮闘しましたが、不況の荒波は同社一社の力では如何ともし難く、まさに木の葉のごとく翻弄されました。
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