「日本工具製作(現・日工)の歴史⑥」を掲載しました。

2021.3.11.

「日本工具製作」(現・日工)の歴史を紹介する6回目です。

yomigaettaseisan.PNG昭和16(1941)年12月8日、太平洋戦争に突入すると、日本軍の東南アジア進出に従って企業の南方進出が企図されました。

昭和19(1944)年の年明け早々、当局から南方への企業化視察の命を受けた日本工具製作は矢野松三郎社長自らクアラルンプールへ赴き、同年5月にはマレー工場を建設して工具類の製造を開始しました。

しかし、その後戦局は悪化の一途をたどり始め、矢野社長以下現地の社員は昭和20(1945)年8月に日本が無条件降伏するまで現地で悪戦苦闘を続けました。

一方、明石市は昭和20(1945)年6月25日、7月7日の2度にわたって米軍の爆撃機B29による市街地への大規模な空襲があり、街並みは焦土と化しました。同社は7月7日の空襲で各工場は甚大な被害を受け、従業員3名が犠牲になりました。

マレーシアで終戦を迎えた矢野社長以下マレー工場の社員はシンガポールでの抑留生活を解かれると、輸送船を改造した船ですし詰め状態の中13日かけて送還され、矢野は昭和21(1946)年2月12日の夜に明石に到着し、惨憺(さんたん)たる有様となった工場の状況を把握しました。

工場の危機的な状況を目の当たりにした矢野は、一日も早く復興に向けて立ち上がらなければならないと覚悟を決め、長い抑留生活と食料不足、長途(ちょうと)の航海で心身ともに疲れ果ててはいましたが、一日も休養を取ることなく翌日から出社し、従業員を督励して復興の指揮をとりました。

上の写真は、戦後逸早く復興なった第二工場で生産に従事する従業員の姿です。

詳細については次の関連ページをご覧下さい。

企業特集>鈴木商店と関係の深い会社>日本工具製作>日本工具製作(現・日工)の歴史⑥

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