柳田富士松に関する関係者の言葉シリーズ①「鈴木家・柳田家の親族の言葉」を掲載しました。
2021.6.17.
「金子直吉に関する関係者・各界人の言葉シリーズ①~⑤」は令和元(2019)年6月~7月にご紹介しましたが、本日から金子直吉とともに鈴木商店の二大柱石と称された柳田富士松に関する関係者の言葉を4回シリーズでご紹介してまいります。
これらの言葉の出典は、主として「柳田富士松傳」(昭和25年2月15日発行、編輯人:白石友治、発行:金子柳田両翁頌徳会)ですが、辰巳会・会報「たつみ」に寄せられた寄稿文もあわせてご紹介します。
柳田富士松は辰巳屋恒七こと松原恒七の長男として出生し明治18(1885)年、鈴木岩治郎がその辰巳屋本家筋から暖簾分けを受け、急発展を遂げつつあった鈴木商店に入店しました。金子直吉が入店する1年前のことでした。
柳田は入店以来、洋糖の商売を担当し、鈴木商店の砂糖事業を安定的な収益部門として飛躍的に発展させました。特にジャワ(現在のインドネシア)糖の取引では、鈴木商店は世界一流の大手筋として認知されるまでになりました。
潔癖、真面目、純情、穏健、堅実、品行方正といった言葉がそのまま当てはまる柳田は逸話(エピソード)や秘話は少ない方でしたが、前記の出版物の中には感想文・寄稿文といった形で柳田と同時代を生きた関係者による言葉が収録されています。この度これらの言葉の中から何点かを選び、次のように分類しました。
①鈴木家・柳田家の親族の言葉
②鈴木商店の元幹部の言葉
③鈴木商店の元社員の言葉
④鈴木商店ゆかりの企業の元幹部の言葉
これらの言葉は柳田に対する関係者の生の声であり、彼の人間性・人物像がほぼ正確に描写されていると思われます。後世の私たちはこれらの言葉を通じて、鈴木商店の砂糖部門の責任者として多大な貢献を果たす一方で、金子直吉の女房役として内部管理面においても手腕を発揮した、人間味あふれる慈父とも言うべき柳田の人物像に接することができるでしょう。
シリーズの初回は「鈴木家・柳田家の親族(*)の言葉」をご紹介します。
(*)鈴木岩蔵、柳田義一、柳田彦次の各氏
■鈴木岩蔵(鈴木岩治郎の三男、帝国人造絹糸初代社長、太陽曹達初代社長、太陽鉱工初代会長)の言葉
「柳田氏は砂糖直輸入の大先達で、一生を世界砂糖貿易にささげた程のエキスパートで、鈴木商店を世界的砂糖商に仕上げた人であった。
金子氏が次々と新事業を発展させるに連れて、氏のよき女房役として商業部門を担当して金子氏に後顧の憂をなからしめたものである。」(一部抜粋)
■柳田義一(柳田富士松の長男、太陽鉱工監査役)の言葉
「私の家の家訓らしいものはといえば、祖父恒七から始まっている。恒七が父の義兄藤田助七氏や鈴木岩治郎氏に云い残したものだが、私も父からそれを云い聞かされた。
『商売のコツは腕である。これは教えて教えられるものでなく、習って習えるものではない。いくら資本があっても商売が繁昌するものとばかりはいえないのだ。取引には千変万化で機微を察するに細かい心と決断を得る度胸が必要だ。その時にこそ、知らず知らずの間に苦労して覚えた商売のコツがものを云うのだ。コツは尊い知識である』」(一部抜粋)
「遠縁に当る前川清二老の手記に父との対談話が書かれていた。『商売は須らく店舗で取引をすべきである。商慣習とでも申すか、往々料亭等にて取引をやっている事は間違った考えである。商売にかこつけ、誰もが料亭を根城に酒色に耽るが如きは外道で、遊んでも良いが商売を切り離しての歓談は男性的で悪影響はない』云云。」(一部抜粋)
■柳田彦次(柳田富士松の次男、日本金属化学社長)の言葉
「私は小学生時代を通じて(父の五十歳前後)朝飯の前には、父の座の前に出て毎朝習字をさせられた。時偶早朝の訪問客があっても客の前で構わず手習いをさす。客に向って時折父が言っていたことに、『私が子供の頃寺子屋で習字が嫌いで、手習草紙に硯の墨を流して真黒にして如何にも字を書いて草紙が黒くなった様に見せかけた。子供の頃のズボラを今更後悔しているので、息子には此の轍をふますまいと思っている』と言っていた。
此の早朝の習字の時間中に毎朝父は東京へ電話するのが日課であった。何時も通話相手は東京支店長の窪田駒吉氏で、大概砂糖の商売の話だったと思う。之が為、座敷へ卓上電話を引いていた。だから私の習字には片時も目を離さず、電話で話している父であった。」(一部抜粋)
鈴木家・柳田家の親族の言葉を一言で表すと、柳田富士松は「潔癖・品行方正な砂糖事業のエキスパート」とも言うことができるでしょう。
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