西川文蔵に関する関係者の言葉シリーズ①「西川家の親族およびその他の関係者の言葉」を掲載しました。
2022.4.19.
先にご紹介しました鈴木商店の二大柱石と称された金子直吉と柳田富士松に関する言葉シリーズに続いて、本日から余人をもって代えがたき鈴木商店の名支配人、西川文蔵に関する関係者の言葉を4回シリーズでご紹介してまいります。(左の写真は亡くなる前年 [大正8年6月]、45歳の西川です)
これらの言葉の出典は、西川が亡くなった1年後に編纂された追懐禄「脩竹余韻」(大正10年8月15日発行、編輯兼発行者:森衆郎)(*)が中心ですが、鈴木商店関係者の親睦組織である辰巳会の会報「たつみ」に寄せられた寄稿文、「私の履歴書」(日本経済新聞社編)に掲載された関係者の伝記の抜粋もあわせてご紹介します。
(*)西川は竹を愛し、自身を「脩竹」と号しましたが、正に竹を割ったように真直な性格の持ち主でした。
西川文蔵は東京高商(現・一橋大学)を3学年にして中退した後の明治27(1894)年3月、鈴木商店に入店します。明治41(1908)年2月、西川は推挙されて支配人に就任するや、衆望を担って鈴木商店の柱石的存在として業務に精励しました。
西川が支配人に就任した明治41年は、鈴木商店が大里製糖所をライバルの大日本精糖へ売却することにより巨額の資金を獲得した翌年で、鈴木商店が金子直吉の采配により製造業への本格的進出を柱とする大躍進の緒に就いた頃に当たります。
金子が縦横に活躍することができたのは、補佐役たる西川の存在があったからこそと言えるでしょう。金子自身もそのことを自覚しており、自分の長男に "文蔵" と名付けたほど西川を信頼し、ゆくゆくは西川を自分の後継者として考えていました。
しかし、大正7(1918)年8月に起こった「鈴木商店焼き打ち事件」以降、西川は心労から胃を患い(医師の診断では「胃潰瘍」)、大正9(1920)年5月15日に急逝します。この時西川はまだ47歳(満46歳)の若さでした。
前記の出版物の中には西川と同時代を生きた関係者による言葉が数多く収録されています。この度これらの言葉の中から何点かを選び、次のように分類しました。(右の写真は、東京高商2学年当時の西川です)
①西川家の親族およびその他の関係者の言葉
②鈴木商店の幹部の言葉
③鈴木商店の社員の言葉
④鈴木商店ゆかりの企業の幹部の言葉
関係者が発する西川を表す熟語には、頭脳明晰、風姿端麗、清廉高潔、精励恪勤、経綸雄偉、百折不撓、邁進勇往、坦懐宏量、敏警卓識、公平無私、温厚篤実、能文達筆、時間厳守など枚挙にいとまがありません。
後世の私たちは関係者の言葉を通じて、その比類なき才能を遺憾なく発揮し、業務拡大に邁進する金子直吉を補佐しつつ、鈴木商店の飛躍的な発展に多大な貢献を果たした西川の有為な人物像に接することができるでしょう。
シリーズの初回は「西川家の親族およびその他の関係者(*)の言葉」をご紹介します。
(*)西川芳太郎、西川政一(旧姓・須原政一)、水島銕也の各氏
■西川芳太郎(西川文蔵の実弟)の言葉
「故人は他人に対しても親切で同情深く、其境遇の不幸な者ほど一層世話もし、何呉と相談もされたのである。今日それがため社会的地位も向上して幸福な生涯を送って居る人が多い。然し故人はそうした顔もされぬので、一層其徳を増した様である。
・・・・ 又他人の批判とか他人の悪口は決して言葉にせぬ人で、時々吾々に注意さるる時其例に出さるることがあるが、其場合には必ず亦其人の美点をも揚げると云う風に頗る君子の面影があった。」(一部抜粋)
■西川政一[旧姓・須原政一](鈴木商店社員、西川文蔵の女婿、日商第四代社長、日商岩井初代社長、日本バレーボール協会会長)の言葉
「ある夜、私の部屋に入って来た西川が、『どうだ、本当に勉強する気があるなら、しばらく会社をやめて本格的に学校へ行ってみたらどうか?』と勧めてくれた。
私はこれ以上面倒をかけることは許されまいと子供心にも思ったが、他方、店でいろいろ同情を寄せてくれる多くの学校出の先輩たちの活気ある仕事ぶりを思い、学校で深く貿易を研究し、その業務をこなせるだけの知識を是非早く身につけたいと願っていたのも否めない。・・・・ 」(一部抜粋)
■水島銕也(神戸高等商業学校 [現・神戸大学] 初代校長)の言葉
「君は最も謹厳にして事大小を問わず決して苟もせざる風あり。従て餘り快濶に談論せず。又猥りに戯語すること無かりき。されど決して沈黙家には非ず。其言う所簡潔にして要を得、雑談亦淡泊にして人をして毫も忌気を催さしめざりき。
・・・・ 以上列記せる謹厳、謙遜、報恩の諸点は実に現今の青年に共通せる缼点なるが、君は此等の点に就て青年の為に自ら模範を示されたりと云うも決して諛言に非ざるなる。」(一部抜粋)
西川家の親族およびその他の関係者の言葉を一言で表すと、西川文蔵は「主家に対する至誠の念熱烈にして、謹厳、謙遜、報恩の諸点について自ら範を示す」とも言うことができるでしょう。
なお、詳細については、次の関連ページをご覧下さい。