西川文蔵に関する関係者の言葉シリーズ④「鈴木商店ゆかりの企業の幹部の言葉」を掲載しました。

2022.6.15.

西川文蔵に関する関係者の言葉を紹介する4回目、今回がシリーズの最終回になります。

nisikawabunnzou7.PNG今回は「鈴木商店ゆかりの企業の幹部(*)の言葉」をご紹介します。

(*)依岡省輔田宮嘉右衛門、米田龍平、町永三郎の各氏

※左の写真は、亡くなる前年[大正8年6月]、45歳の西川です。









■依岡省輔(神戸製鋼所専務取締役、後・日沙商会社長)

yoriokasyousuke.PNG「君は恪勤(かっきん)精励(せいれい)、而も温厚篤実の士、真に鈴木商店の柱石たりしこと()く人の知る所なり。君の執務は誠に繁多にして能く常人の処理し(あた)はざる所なりと雖も、縦横溌溂(はつらつ)として(しか)も一糸乱れず、店務を総括する常に整然たり。

(しか)して、君は(この)激務裡に在りて悠揚(ゆうよう)迫らず、常に余裕の綽々(しゃくしゃく)たる風格ありし事、皆敬服せし所なり。即ち君は書画鑑定に卓越せる見識を有して斯界(しかい)に名あり。」(一部抜粋)




■田宮嘉右衛門(神戸製鋼所常務取締役、後・同社社長、後・播磨造船所社長・会長)の言葉

tamoyakaemonn2.PNG「故西川氏資性温厚宏懐、言行ぎょうことごとく至誠に発す。これゆえに氏の対話常に生動せいどうし、胸中何等の墻壁しょうへきなく温情溢るるが如し。殊に下を導くに極めて篤く、問に答えてその理解するを見満悦せらるるの状、そぞろに氏の意気に感ぜずんばあらざるものあり。

之が為氏と語る者、縦令(たとえ)其対話の(なか)、策を(ろう)せんとすと(いえ)も、(たちま)ち氏が温情の発露に打たれ翻然(ほんぜん)として肝胆(かんたん)()(れき)するに至ると云う。」(一部抜粋)

          

            nisikawasyokan3.PNG
                闘病中(大正9年)に西川が記した書簡
                ※西川は書家に勝るとも劣らない達筆でも知られた。

■米田龍平(札幌製粉技師長兼支配人、大里製粉所工場責任者)の言葉

yonedaryuuhei3.PNG「即ち鈴木王国に於ける四天王の随一として其枢機すうきに参与し、精励せいれい恪勤かっきんせいちょく謹厳きんげんを以て身を持し、後進に其範を示すと同時に最も情宜じょうぎに厚し。しかり、君は実に現代的紳士にしてしかも現代稀に見るの人なりき。

特に君が厳格なる性行(せいこう)の表現として、公私の書信(しょしん)に接する毎に事の大小軽重を論せず、或は業務以外の事柄と(いえど)(いや)くも之を等閑(とうかん)放任するが如きこと断じて無く、最も懇切機敏に応答するに在り。」(一部抜粋)




■町永三郎(元神戸製鋼所社長)
「西川さんはあらゆる点において、当時の鈴木商店ひいてはわが国の産業界にあってもその迫力は一際ひときわ群を抜いて素晴らしいものがあり、またその人格識見も実に立派な英国紳士でありましたが、惜しいかな発展興隆の途上大正九年五月、享年四十七歳(満46歳)の若さを以て早逝されたことは、ただに鈴木商店関係のみならず、わが国財界の一大損失であったことは申すまでもありません。

私は、ご生前親しくお会いしたことはわずかの三回だけでありましたが、静かなること林のごとく、限りなき人間的な深さを感ずる典型的産業人であったと、今でも懐かしく思っております。」(一部抜粋)

鈴木商店ゆかりの企業の幹部の言葉を一言で表すと、西川文蔵は「恪勤精励、温厚篤実にして真に鈴木商店の柱石たりし人」とも言うことができるでしょう。

なお、詳細については、次の関連ページをご覧下さい。

人物特集>西川文蔵>西川文蔵に関する関係者の言葉シリーズ④「鈴木商店ゆかりの企業の幹部の言葉」

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