「大日本塩業(現・日塩)の歩み②」を掲載しました。
2021.9.7.
「大日本塩業」(現・日塩)の歴史を紹介する2回目です。
明治38(1905)年、日露戦争終結後に中国北東部の遼東半島が「関東州」として日本の租借地になると、元々製塩の好適地であったことから、当時著しく荒廃していたとは言え再開発の可能性が高いことに日本の企業家が着目し、塩田開発の機運が高まりました。
関東都督府は塩田開発者を募ることとなり、塩の専売制は適用せず許可制として大規模経営が可能な経営者を選定する方針としました。(左の写真は、普蘭店塩田の貯塩場の様子です)
このため、小規模経営の出願者は許可されず、明治39(1906)年に許可されたのは日本食塩コークスほか3社(満漢塩業、満漢起業、宅合名会社)と2個人にすぎませんでした。
日本食塩コークスは双島湾、東老灘、普蘭店・河棗兒房間の合計4,000町歩の塩田開設許可を得ると、数々の困難を乗り越えて工事を進めていきました。
明治41(1908)年2月、日本食塩コークスは社名を「大日本塩業株式会社」に変更すると、明治45(1912)年から大正4(1915)年にかけて関東州の東洋製塩、満漢塩業、東亜塩業(鈴木商店系列)などが資金、技術、販路等の面から経営が苦しくなると、それらの製塩会社を次々に吸収合併していきました。
これにより、大正5(1916)年には関東州における日本人の塩田は大日本塩業の一手に帰し、日本の塩田経営者として独占的な地位を獲得しました。
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