「大日本塩業(現・日塩)の歩み③」を掲載しました。
2021.10.9.
「大日本塩業」(現・日塩)の歴史を紹介する3回目です。
明治40(1907)年、台湾専売塩の移出販売を請負っていた愛知県知多郡半田町(現・半田市)の豪商・(二代目)小栗富治郎が経営する小栗銀行(名古屋市)が、日露戦争終結後の「明治四十年恐慌」とも呼ばれている恐慌に巻き込まれた結果、同年6月に経営破綻しました。
小栗銀行の経営破綻に伴う整理は難航し、桂太郎(第11代、第13代、第15代総理大臣)から相談を受けた鈴木商店の金子直吉は桂の求めに応じ、鈴木商店は小栗が保有していた台湾塩の一手販売権を継承し、この一手販売権を手掛かりにして小栗銀行の整理に着手するとともに、台湾塩の内地への移出業務を担うこととなり明治42(1909)年、その受け皿として東洋塩業(後・台湾塩業)を設立しました。
東洋塩業は創立時より台湾塩の内地(日本国内)への移出販売に邁進しましたが、金子直吉の思惑に反して内地での販路は思うようには伸びませんでした。その理由は、大日本塩業によって日本に輸入されていた関東州塩が内地市場を席捲していたことにありました。
その後、鈴木商店は満漢塩業に代って普蘭店・三十里堡間の塩田開設権を取得し、関東州での製塩業の足掛かりを得るとともに、大正3(1914)年には大日本塩業の社長に就任していた島徳蔵が、同社株式の過半数を鈴木商店に売り渡すという事態が起こりました。
これにより、鈴木商店は台湾塩の移入販売を一手に行う台湾塩業に加えて、関東州における塩田経営を掌握し、関東州塩の輸入販売を一手に行う大日本塩業の実権を掌中に収めることとなりました。
冒頭の写真は、商標「カネ辰」が描かれている鈴木商店の暖簾です。
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