「大日本塩業(現・日塩)の歩み⑧」を掲載しました。
2022.1.19.
「大日本塩業」(現・日塩)の歴史を紹介する8回目です。
大日本塩業は太平洋戦争の敗戦によって、海外において営々と築いてきた在外資産を一朝にして失い、会社経理応急措置法に基づき「特別経理会社」に指定され昭和23(1948)年2月、再建整備計画の認可を受けました。
昭和24(1949)年3月31日には「大日本塩業」の解散登記を行うと同時に第2会社「日塩株式会社」の設立登記を行い、取締役社長には鈴木商店出身の北浜留松が、専務取締役には同じく鈴木商店出身の安東直市が就任しました。
日塩は大日本塩業の業務をそのまま継承し倉庫業を主体に運送と、これらの業務に伴う塩の保管、包装などを行い、同時に京浜、名古屋、神戸の各地に加工塩工場を建設し、輸入塩の粉砕加工を行うことになりました。
運送業務については、同社は昭和14(1939)年9月の大蔵省専売局による塩運送契約の一元化方針に基づき塩運送業務をすべて日本食塩回送に移譲していましたが、戦後運送元請制度について検討が重ねられた結果昭和27(1952)年6月、塩の運送元請複数制度が実施され、日塩は他の2社とともに、日本専売公社(大蔵省専売局の後身)から指名を受けました。
これにより同社は運送元請業務が復活し、その後の同社の運送業務の売上は総売上の3~5割を占め、経営の支柱ともいえる業務に成長していきました。
塩の生産方式についてはそれまでの入浜式塩田では厳しい肉体労働が避けられず、労働力の確保も困難になってきていたことから昭和28(1953)年以降、強力な国家資金の補助の下で「入浜式塩田」から "塩産業革命" と呼ばれるほど画期的な「流下式塩田」へと転換工事が進められることになりました。
冒頭の写真は、手前が入浜式塩田で奥が流下式塩田の枝条架です。
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