「太陽曹達(後・太陽産業、現・太陽鉱工)の歴史②」を掲載しました。
2022.7.23.
太陽曹達(後・太陽産業、現・太陽鉱工)の歴史を紹介する2回目です。
大正中期には三井物産を凌駕するまでに成長した鈴木商店でしたが、第一次世界大戦の終結(大正7年11月)に伴う反動恐慌ともいうべき大不況により受けた打撃は、その成長が急であっただけに甚大でした、
これを機に鈴木商店の業績は悪化の一途をたどり昭和2(1927)年4月2日、「昭和の金融恐慌」の最中に主力銀行・台湾銀行から融資打切りの最後通告を受け、万策尽きて経営破綻を余儀なくされました。
鈴木商店の経営破綻後、金子直吉は鈴木の名を残した形での再出発を考えていましたが、台湾銀行などの大口債権者の同意を得られず、金子自身の経営復帰も受け入れられませんでした。
そこで、金子直吉は太陽曹達を通じて再び事業経営に乗り出すことになりました。
昭和6(1931)年、太陽曹達は持株会社に改組され、同社の定款の目的には「各種事業に対する投資」が追加され、同年9月に高畑誠一が代表取締役に就任すると、同時に金子は相談役に就任しました。金子が65歳の時でした。
その後、太陽曹達(昭和14年、「太陽産業」に社名変更)は旧鈴木系列企業の株を順次買い戻していきましたが、金子は昭和19(1944)年2月に77歳で亡くなるまで、鈴木商店再興の悲願成就のため、飽くなき事業の鬼として太陽産業本社(神戸市栄町通3丁目)の2階最奥の部屋を拠点として奮闘を続けました。
冒頭の写真は、ある日の食事中の金子直吉です。
詳細については、次の関連ページをご覧下さい。
鈴木商店の歴史>ソーダ、ゴム、非鉄金属への進出~太陽曹達、日本輪業、日本冶金>太陽曹達(後・太陽産業、現・太陽鉱工)の歴史②