「太陽曹達(後・太陽産業、現・太陽鉱工)の歴史⑤」を掲載しました。
2022.9.26.
太陽曹達(後・太陽産業、現・太陽鉱工)の歴史を紹介する5回目です。
第二次世界大戦終結後、モリブデンの需要が皆無の状態が続く中、太陽鉱工の橋本隆正常務は、近い将来鉄鋼生産が回復しモリブデンが必要とされる日が必ず到来するとの見通しを堅持し、手持ちの在庫を売却することなくその日を待ち望んでいました。
昭和25(1950)年以降、橋本の読み通りモリブデンの需要は急速に回復し、昭和26(1951)年には1年余りでトン当たりの単価が実に8倍に急騰し、同社は手持ちのモリブデン精鉱19トンを有利に売却できたことから、逸早く大東鉱山、赤穂製鉄工場(昭和26年10月、「赤穂工場」に改称)の生産再開に踏み切ることができました。
昭和27(1952)年9月、大東鉱山(島根県大原郡大東町、現・島根県雲南市)は増産のネックとなっていた選鉱場を大幅に拡張するとともに設備の増強を進めることにより順調に生産量を伸ばし、わが国最大のモリブデン鉱山へと成長していきました。
また、当時の太陽鉱工の主力工場は仙台チタン工場(昭和28年4月、「仙台工場」に改称)でしたが、同工場は昭和23(1948)年1月よりフェロチタンの生産を再開し、創業期の同社の経営を支えるとともに、昭和25(1950)年からは漸次需要が増え、順調に生産を伸ばしていきました。昭和27(1952)年12月、同工場はわが国初の低炭素フェロモリブデンを生産し、昭和29(1954)年1月にはフェロバナジウムの生産を開始しました。
冒頭の写真は、太陽鉱工の橋本隆正常務です。
詳細については、次の関連ページをご覧下さい。
鈴木商店の歴史>ソーダ、ゴム、非鉄金属への進出~太陽曹達、日本輪業、日本冶金>太陽曹達(後・太陽産業、現・太陽鉱工)の歴史⑤