鈴木商店の生産事業を支えた技術者シリーズ①「米田龍平と製粉事業」をご紹介します。
2023.1.18.
鈴木商店の大番頭・金子直吉は「生産こそが人間の一番尊い仕事である」という信念の下、「国家がやるべきことを鈴木がやっている」という自負心をもって産業立国に邁進し、一時期には80社を超えるともいわれる一大コンツェルンを構築するに至りました。
そこには、鈴木商店を支えた選りすぐりの技術者達が存在していたことを忘れてはならないでしょう。
鈴木商店の生産事業を支えた技術者シリーズの初回は、製粉の本場アメリカで習得した最先端技術をもって鈴木商店傘下の札幌製粉、大里製粉所で次々に優れた製品生み出して日本の製粉事業の発展に尽くし、内外から高く評価された米田龍平(左の写真)をご紹介します。
明治後期に東亜製粉、札幌製粉を相次いで買収し製粉事業に進出した鈴木商店は明治44(1911)年、北九州・大里の地の利を活かし大里製粉所を設立しました。その後、大里製粉所は国際経験豊かなスーパー技師・米田龍平の指導の下で生まれた「赤ダイヤ」、「緑ダイヤ」などのブランドで販売を促進し、業績は順調に推移しました。
大正9(1920)年には札幌製粉、大里製粉所が、また大正14(1925)年には東亜製粉が先発の日本製粉(現・ニップン)と合併しますが、特に日本製粉が大里製粉所との大型合併による競争力の強化を決意したのは、同製粉所が米田龍平の指導により創業以来相当の成績をあげていること、ノーダイク社製の最新鋭機をはじめ設備が完備していること、鉄道や港湾の便がよいことなどが理由でした。
上の写真左は解体前の日本製粉門司工場(旧・大里製粉所)、右は大里製粉所前で愛車フォードの運転席に座る米田です。
米田龍平は明治元(1868)年、大阪に出生。17歳の時に初めて渡米を図るものの、親に発覚して失敗します。その後明治19(1886)年に19歳で単身渡米し、"Mill City" と称された製粉工業の中心地・ミネアポリスのウルフ社に入社し、持ち前の粘り強さと陽気な性格から「ドラゴン・ヨネダ」と呼ばれる一流の製粉技術者に成長していきました。
米田は本場アメリカで習得した製粉技術により日本の製粉事業に貢献したいと考え明治34(1901)年、家族(相手方親族の反対を押し切り、ニューヨークでフランス人のウジェニ・ガレーと結婚し、一男三女をもうけていました)をアメリカに残して単身帰国します。
明治35(1902)年に地元(札幌)の有力者たちによって札幌製粉が設立されるに当たり、米田の力量と経歴を知った彼らは工場の運営に不可欠な人材として米田を招聘しました。支配人兼技師長として着任した米田は、最先端技術をもって高品質の製品を大量に生産できる機械製粉の技術を確立しました。(左の写真は明治40年頃の札幌製粉です)
その後、米田は明治39(1906)年にイギリス人経営の香港製粉に招聘され、同社が解散すると明治43(1910)年、知遇を得た後藤新平の紹介により鈴木商店に入社して大里製粉所の建設に携わり、引き続き技師長として手腕を発揮しました。
大正9(1920)年の合併により大里製粉所が日本製粉門司工場になって以後は下関営業所参事として指導的役割を果たし、「赤ダイヤ」、「緑ダイヤ」のブランドもそのまま受け継がれました。
今もニップン小樽工場で生産される小麦粉には、鈴木商店ゆかりの米星印を印した札幌製粉時代のブランド「赤星」「白星」に由来する「青星」「北赤星」(左の写真)の名称が残されています。
米田に対する高い評価は、その月俸が日本製粉下関支店長と同額であったことからも窺うことができます。製粉の本場アメリカで習得した技術をもって日本の製粉事業の発展に尽くし、お雇い外国人技師に指導を仰がねばならなかった明治期にあって、わが国ばかりか欧米からも高く評価された米田の存在はひときわ光彩を放っています。
なお、平成13(2001)年8月1日付日本経済新聞朝刊の「文化」欄に投稿された米田龍平の曾孫・村上嘉代子氏による「曾祖父は近代製粉の父」には、米田の輝かしい経歴・実績のほか米田がアメリカ時代にフランス人女性・ウジェニに猛烈にプロポーズしたこと、ウジェニが日本での生活に慣れずに苦労したこと、米田がおしゃれで仕事熱心でユーモアに溢れる人だったこと、手先が器用でベッドは手作りだったことなどプライベート面でのエピソードも紹介されました。