鈴木商店の生産事業を支えた技術者シリーズ②「辻湊の新技術・新分野への飽くなき挑戦(その1)」を ご紹介します。

2023.1.27.

tujiminato3.png(つじ)(みなと(左の写真)は明治9(1876)年、佐賀県小城町に小原儀三郎の長男として出生。後に鈴木商店で活躍した伯父・辻泰城の養子になります。佐世保の軍港地区に転居した辻は、はじめ海軍を志しましたが近視のため断念します。

明治37(1904)年、京都帝国大学工科大学機械学科を卒業すると石川島造船所に入社し、設計科副科長として活躍していましたが明治41(1908)年、鈴木商店に転じ、傘下の神戸製鋼所の技師長に就任しました。

辻は神戸製鋼所在任わずか1年余りで、鈴木商店が台湾に建設を計画していた製糖工場の機械調査のためジャワに赴き、途中台湾に立ち寄って工場の敷地を決定すると、帰朝後直ちに技師・酒井温とともにシベリヤ経由でイギリス、ドイツに急行し諸工場を視察の上、製糖機械の各部門に特徴を持つ会社毎に分割発注し、鈴木商店としてこれらをまとめて最新鋭の製糖工場を完成しました。 

touyo;useitougeppiseitousyo.png明治43(1910)年、台湾・嘉義庁北港街に製糖能力(日産)1,000トンの北港工場、同250トンの月眉工場からなる北港製糖(東洋製糖を経て、現・DM三井製糖)が設立され、辻は取締役(技師長兼務)に就任しました。

この両工場は製糖機械が優秀であったことから初年度から高率の利益を挙げ、株主から大いに感謝されるともに業界では模範工場として高い評価を得ました。鈴木商店はこの北港製糖を起点として台湾における製糖事業を拡大していきました。(右の写真は、かつての北港製糖月眉工場(現・台糖月眉観光糖廠)です)

さらに、辻は台湾・宜蘭庁下において宜蘭製糖公司の買収(明治45年)に続いて宜蘭殖産の設立(大正4年)に関わり、同社の取締役として製糖を中心に、軽便鉄道、製氷、植林開墾などの事業を経営しました。また同地では小松楠彌らとともに宜蘭電気を設立して火力発電の事業を手がけました。

taisyou10nenntouji2.png大正3(1914)年に 第一次世界大戦が勃発すると、世界的な船舶不足と船価高騰による海運業界未曾有の好況を予想していた金子直吉は辻を内地に呼び戻し、造船事業への進出を計画するよう命じました。

辻は兵庫県相生町(おおちょう)の播磨造船の調査・買収(大正5年)を主導し、播磨造船所設立後は専務取締役(造船部長を兼務)として手腕を発揮しました。(辻はその後、帝国汽船取締役 [造船部長を兼務]、神戸製鋼所取締役本社副長 [造船部長を兼務] に就任しました)(上の写真は大正10年頃の播磨造船所の全景です)

第一次世界大戦中におけるわが国造船業界最大の懸案は深刻な鉄材不足に端を発するアメリカとの船鉄交換問題でしたが、辻はこの解決策を金子直吉に進言すると採り上げられ、金子の大活躍によるアメリカとの船鉄交換契約の締結(大正7年)として結実しました。

tobazousennjyosougyoutouji.PNG大正5(1916)年、三重県鳥羽町の有志から、 日露戦争終結後に到来した深刻な不況により廃業寸前の状況に陥っていた地元の造船所の危機打開を懇請された鈴木商店は、辻の調査に基づき鳥羽造船所を買収し、辻は自ら取締役(工場主)として経営の指揮を執りました。(左の写真は創業当時の鳥羽造船所です)

当時は第一次世界大戦の勃発による造船部門の活況に伴い船舶用電機品の供給不足が深刻化し、設備を拡張するにも電気機器の入手確保は困難を極めていました。辻はそれを逆手に取り大胆な「電気機器の自給化(内製化)計画」を打ち出すとともに、船舶用電気機器および小形電気機器の専門メーカーとなることを思い描き大正6(1917)年、鳥羽造船所の一隅にわずか100坪の電機工場を設けました。

uinndoramoota2.pngこの電機工場がその後、神戸製鋼所、神鋼電機を経て現在のシンフォニアテクノロジーへと発展し現在に至っています。

辻に請われて鳥羽造船所に入社した小田嶋修三が同社の「育ての親」と呼ばれるのに対し、辻は「生みの親」と呼ばれています。(右の写真は帝国汽船鳥羽造船工場時代の大正7~10年頃に製造されたウインドラスモータ[錨巻上用]で、鈴木商店の商標「よね星」が確認できます)

鈴木商店の生産事業を支えた技術者シリーズ②「辻湊の新技術・新分野への飽くなき挑戦(その2)」をご紹介します。

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