鈴木商店の生産事業を支えた技術者シリーズ③「鳥羽造船所電機工場の育ての親・小田嶋修三(その1)」をご紹介します。
2023.3.25.
小田嶋修三(左の写真)は明治20(1887)年、岩手県に出生。京都帝国大学電気工学科を卒業し、関西の有力電機メーカー・奥村電機商会に入社し設計課長を務めていました。
大正5(1916)年、鈴木商店は鳥羽造船所を買収すると辻湊が取締役(工場主)として指揮を執り、翌大正6(1917)年5月にわずか100坪の電機工場を設けて電機係を立ち上げました。当時、電機工場では電気技術者の増強は喫緊の課題であり、辻は各方面の人物を物色した結果、小田嶋に白羽の矢を立てました。
辻に面会した小田嶋はたちまち辻の人柄に敬愛の念を抱くところとなり、奥村電機商会の社長の慰留を振り切り大正6(1917)年10月、鳥羽造船所に入社し電機事業に身を投じました。(下の写真は鳥羽造船所着任当時の小田嶋です)
鈴木商店が鳥羽造船所を買収した当時、船舶用電気機器および小形電気機器の専門メーカーとなることを思い描き電機事業の将来性に大きな夢を抱いていた辻は、第一次世界大戦の勃発による造船部門の活況に伴い船舶用電機品の供給不足が深刻化していた窮状を逆手に取り、「電気機器の自給化(内製化)計画」を打ち出して電機工場を設けたのですが、何よりもまず技術陣の整備が必要だったのです。
小田嶋は鳥羽造船所に入社するや電機係主任として活躍する一方で、造船所内には人格錬成を要する者が少なくなかったことから教育の大切さを痛感し、職工養成所の開設に情熱を注ぎました。
初めは小田嶋の主張に耳を貸す者はいませんでしたが、次第に小田嶋の熱意が通じて教育の必要性が認識され大正8(1919)年11月、ついに造船、造機、電機の3科からなる「鳥羽造船所職工養成所」の開設が実現します。
そして、この養成所が後の「神鋼電機鳥羽青年学校」「神鋼電機職業訓練所」そして現在の「シンフォニアテクノロジー能力開発センター」へと受け継がれていきました。(左の写真は大正11年の鳥羽造船所職工養成所入所式です。前列右から5番目が小田嶋です)
鳥羽電機製作所(電気係 ⇒ 鳥羽電機部 ⇒ 鳥羽電機製作所へと改称)は情勢の変化に対応して次々に新しい製品の開発を手掛けていきましたが、帝国汽船鳥羽造船工場(*)の造船部門は好況を続けているにも関わらず電機部門は経営不振の最中にあり、新式の工場建設はおろか優良な工作機械の購入も満足に出来ない状況でした。
このため、先進国の最新技術を吸収するため欧米視察の必要性を痛感していた小田嶋は辻の同意を得ると大正9(1920)年7月、横浜港から1年半にもわたる欧米視察に出発しました。
(*)大正7年5月、鳥羽造船所は播磨造船所、浪華造船所とともに鈴木商店系列の帝国汽船に合併されました。
この頃、鈴木商店系列の帝国人造絹(現・帝人)の久村清太は国内の大手電機メーカーにポットモーター(人絹をポット [容器] の内側に高速で巻き取る人絹製造の心臓部)の製造を依頼しましたが、現在の技術力では希望に近い回転数(毎分5,00回転)を実現することは不可能と軒並み断られ、金子直吉が辻と相談した結果大正9(1920)年1月、鳥羽電機製作所に同モーターの試作が依頼されました。
当時、世界最先端の繊維であった人絹(人造絹糸、レーヨン)の製造技術は秘中の秘で、中でもポットモーターは技術開発の焦点となっていました。
小田嶋が欧米視察で不在の間、電機部門の責任者・高田通理技師ら技術陣は周波数を60サイクルから90サイクルにすることにより毎分5,400回転を実現しようと奮闘しました。
これは当時としては異例中の異例の設計であり、成功するには並大抵のことではありませんでしたが、高田は日夜困苦忍耐の上良く部下を統率してこの難事業の基礎を築き上げました。(右の写真はポットモーターの試作品の数々です)
この間、第一次世界大戦終結に伴う反動不況による影響が予想以上に深刻になったことから大正10(1921)年2月、帝国汽船の造船部は廃止され、播磨造船工場および鳥羽造船工場は神戸製鋼所に合併され、鳥羽電機製作所は鳥羽電機製作工場に改称されました。