鈴木商店の生産事業を支えた技術者シリーズ④「秦逸三と人造絹糸の製造(その1)」をご紹介します。
2023.5.16.
秦逸三は明治13(1880)年、広島県安芸郡海田町に出生。東京帝国大学医科大学薬学科に入学しましたが、翌年同大学工科大学応用化学科に転入学します。応用化学科の同窓には後に同志となる久村清太がいましたが久村は教室にほとんど出てこなかったので、二人は顔見知り程度の関係だったようです。
秦は卒業後の明治41(1908)年、樟脳専売局神戸製造所に就職し専売局技手に、翌年には神戸税関に転職し鑑定官補となりましたが、応用化学の道が諦めきれず、樟脳専売局時代に知己を得た鈴木商店の金子直吉に就職先を相談したところ、金子は当時日本セルロイド人造絹糸(現・ダイセル)が設立された時期であったことから、秦に「人絹(人造絹糸、レーヨン)の研究をしてみたらどうか」と話し、久村に会うことを勧めました。
秦はビスコース(木材パルプを主原料とする人絹製造法)を研究していた久村を東レザー(鈴木商店系列)の研究室に訪ね、久村は人絹製造について語り、秦は人絹について興味を深めることになりました。秦は夏冬の休みの度に大阪の久村の自宅や東レザーの研究室を訪ね、久村からビスコース法について指導を受けました。
明治45(1912)年、秦は金子と久村の人絹に関する話を思い出して人絹製造の研究を始めることを決意し、米沢高等工業学校(現・山形大学工学部)応用化学科の講師(後・教授)として米沢に赴任しました。
早くから久村と秦の人絹研究の将来性を見抜いていた金子はその後、終始二人を支援し続けました。まだ人絹事業の将来性が全く不透明であった当時、金子の決断は決して軽いものではなかったでしょう。
秦は研究に夢中になり過ぎて本業の米沢高等工業学校の講師としての仕事が疎かになり、同僚の教授たちの反感は募るばかりで、研究室の薬品の使用を禁止され、自らの給与から研究費を捻出しなければならず、食べる米がなくなったことさえあったといいます。(左の写真は秦の研究室で、右が秦です)
このため、秦は久村から金子への助言もあって鈴木商店から金銭的支援を受けることになりましたが、人絹製造の研究は困難を極め、疲労と二硫化ガス中毒により何度も昏倒して宿直室に担ぎ込まれ、また講義も忘れるようになりました。しかし校長の大竹多気は秦が講義を忘れた際にはそれを代行するなど、秦を励まし続けました。
一方で、金子の人絹生産に対する熱意が地元・米沢に伝わると、米沢の有志の間に人絹製造工場を誘致する機運が高まり、金子に工場を米沢に設けることを懇望しました。
金子は自給できる衣料の繊維は生糸だけであった日本において、衣料原料を国内で生産することの重要性を認識し、また「御蚕包み」(絹物ばかりを身に着けている贅沢な生活をいう)の夢を人絹によって実現させようと考えており、一方で紡績業は綿花を原料とした加工業でマージンは薄いが、人絹生産のマージンは大きいことに魅力を感じていたことから、米沢での人絹製造の事業化を決意しました。
人絹製造の事業化は「東レザー分工場米沢人造絹糸製造所」として大正4(1915)年にスタートを切りました。(東レザーは直後に、東工業に改称します) (下の写左は米沢工場、右は同工場の「紡糸室」です)
秦は工場の経営に対して向こう3年は利益を度外視して専ら研究を主とすることを金子に申し入れましたが金子はこれを即座に却下し、事業は「利益第一主義」であることを強調し、秦に対して事業の厳しさを教えました。実際、この事業はその後長らく損失を重ねることになりますが、金子は嫌な顔一つせず、常に温かく庇護し激励したといいます。
秦は久村に応援を頼み、金子も久村に米沢行きを再三懇請すると、久村はようやく重い腰を上げました。そして、秦も人絹事業に専念するため米沢高等工業学校の教授を辞任し、嘱託契約に変更しました。こうして秦、久村の米沢における二人三脚が始まりました。二人はよく酒を飲み、二人の酒の付き合いは終生続いたといいます。
金子は人絹製造が苦戦する中、久村の強い勧めもあって秦を欧米に出張させました。秦の欧州出張に当たっては、鈴木商店ロンドン支店長・高畑誠一がアテンドしました。