鈴木商店の生産事業を支えた技術者シリーズ⑤「久村清太と人造絹糸の製造(その2)」をご紹介します。
2023.6.30.
秦逸三の欧米出張は大正5(1916)年11月から大正7(1918)年3月まで続きましたが、この間は、久村清太(左の写真)が米沢工場の運営を担いました。しかし米沢工場の毎月の赤字は拡大し、ついに東工業の資金だけでは足りず、親会社である鈴木商店に助けを求めました。
米沢工場への度々の援助に鈴木商店経理主任の日野誠義が「人絹に金を注ぎ込むくらいならドブの中に捨てた方がましだ」と怒り、金子が「まあ、出しといてやれよ」となだめたといいます。鈴木商店の資金援助は、本格的な利益が出る大正12(1923)年まで続きました。
結局、秦の欧米出張の成果は思うに任せず、あまりの収穫の無さに秦はサンフランシスコからの帰国の途中、痛恨と絶望から船中で自殺を考えたこともあったといいます。
大正7(1918)年5月、今度は久村がアメリカへ出張しました。この久村の出張では大きな収穫が得られ、後の帝国人造絹糸の発展に大きな役割を果たすことになりました。
久村はナショナル人絹工の工場内に入り、最新の機械に接することが出来ました。さらに、久村は同社の若い技術者に接触し、工場の配置図、原液・廃液から後処理に至るまでの設計図などを書かせるとともに優良な機械類を購入し、大正8(1919)年3月に帰国しました。広島工場(*)の建設(大正10年竣工)に当たっても久村のアメリカ視察が大いに役立ちました。
(*)広島工場の建設地は、広島市千田町の神戸製鋼所銑鉄工場跡でした。
ようやく生産が軌道に乗る兆しが見えてきたことから大正7(1918)年6月17日、帝国人造絹糸(現・帝人)の創立総会が開催されました。社長には鈴木岩蔵、専務には佐藤法潤と松島誠、取締役には久村清太と秦逸三、監査役には西川文蔵、松田茂太郎らが就任。経営の実際の責任者は松島誠、技師長は久村清太でした。
米沢工場の方は、工場長・長本庄利平、技師長・秦逸三の二人が工場の運営にあたりました。(左の写真は米沢を訪れた "鈴木よね" を中心にした幹部たちです)
久村は大正10(1921)年にも欧米に出張し、人絹用機械製造企業から多くの情報を得るとともに、最大の障害となっていた紡糸工程を改良するためドイツではラティンガー社の紡糸機を、アメリカでは白金キャップなどを購入し翌大正11(1922)年に帰国しました。(右の写真は米沢工場の「繰返し室」です)
広島工場では人絹糸の毛羽を防ぐため「トッパム紡糸法」を採用することとなりました。トッパム紡糸法には人絹紡糸機械用「ポットモーター」を使用することが外国の文献で分かっていましたが、久村が大手メーカーから開発を断られて困っていると聞いた金子は辻湊と相談した結果、ポットモーターの開発を鈴木系列の帝国汽船鳥羽造船工場(旧・鳥羽造船所)に依頼することになりました。
鳥羽造船工場の小田嶋修三(後・神戸製鋼所常務、神鋼電機顧問役)らは幾多の困難を乗り越えて開発に成功します。大正14(1925)年には帝国人造絹糸の広島、米沢、岩国の各工場に一万台余りのポットモーターが納入され、人絹製造業界に一大革命を起こしました。
広島工場は軌道に乗るまでは時間を要しましたが、大正15(1926)年には帝国人造絹糸がわが国人絹糸の自給率(60%)の約70%を供給し、日本の消費量の42%が帝国人造絹糸によって賄われるまでに生産量が拡大しました。同年下期には2割配当を実施し、第一次世界大戦終結に伴う反動不況により苦境に陥っていた鈴木商店を救うため毎月30万円をロイヤリティー名義として支払うなど、同社はそれまでの鈴木商店のお荷物企業から一転して花形企業となりました。(上の写真は当時の広島工場です)
さらに、大正15(1926)年に岩国工場が竣工しましたが、最新式設備を備えた同工場の生産量は初年度に広島工場に並び、以後帝国人造絹糸のドル箱工場となりました。その一方で、米沢工場は設備が旧式になったこともあり昭和6(1931)年11月に操業を停止しました。
昭和3(1928)年、久村は秦とともにビスコース法レーヨンの工業化を評価され、藍綬褒章を受章しました。(左の写真は昭和46年6月に米沢市・御成山公園の展望台に建立された「人絹工業発祥之地」の石碑で、ここからは眼下に米沢工場の跡地が一望できます)
久村は昭和9(1934)年に帝国人造絹糸社長(第二帝国人絹の常務取締役を兼任)、昭和13(1938)年に国策パルプ工業取締役、昭和19(1944)年に帝人航空工業取締約社長、昭和20(1945)年に帝国人造絹糸会長、帝人製機(帝人航空工業が改称)社長(会長兼任)、昭和23(1948)年に日本化学繊維協会会長に就任し、化学繊維分野の発展に力を尽くしました。