丹波が生んだ二人の鈴木商店ゆかりの人物を紹介します。
2015.2.18.
「丹波黒豆」や「丹波松茸」で全国的に知られる兵庫県丹波市から鈴木商店ゆかりの二人の人物が生まれています。一人は鈴木商店高商派の代表でもある永井幸太郎、もう一人は西川政一で、どちらも鈴木商店の絶頂期に活躍するも破綻に遭遇し、後に再生を期して船出した日商を軌道に乗せた功労者でもあります。(写真左:永井幸太郎、右:西川政一)
永井幸太郎は、明治20(1887)年4月4日、氷上郡(現・丹波市)山南町下滝の農家に生まれ、地元の柏原(カイバラ)中学(現・兵庫県立柏原高等学校)を主席で卒業(第4回生)、同期に芦田均(後に首相)がいました。神戸高等商業(現・神戸大学)に進み水島銕也校長の薫陶を受けます。同期には高畑誠一、出光佐三(後の出光興産創業者)、和田恒輔(後の富士電機製造社長)等がおり、永井・高畑・出光の三人は同じ下宿での学生生活を送った仲間でもありました。下記の関連資料は、神戸新聞の「学校人脈」特集に柏原中学出身者として永井が紹介された時のものです。
西川政一(旧姓・須原)は、明治32(1899)年9月5日、氷川郡(現・丹波市)市島町の農家に生まれ、地元の竹田小学校高等科を卒業し、15才で鈴木商店に見習いとして入店します。支配人・西川文蔵に認められ、西川家に下宿しながら夜学に通わせて貰い、夜間商業学校を卒業後一旦休職して神戸高等商業に進学、同校卒業後鈴木商店に復帰。後に西川の養子となり、昭和2(1927)年西川の次女と結婚が決まり、4月3日永井幸太郎夫妻の媒酌による結婚披露宴が予定されていましたが、その前日の4月2日、鈴木商店の破綻が確実となったため、披露宴は中止されその後も執り行われることはありませんでした。下記の関連資料は、平成27年1月1日付の地元丹波新聞の特集記事「丹波人物伝」に西川が紹介されたものです。