⑩九鬼嘉隆の墓(常安寺)

織田・豊臣に仕えた戦国時代最強の水軍大将

九鬼嘉隆は、戦国から安土桃山時代、織田信長、豊臣秀吉に仕え、九鬼水軍を率いて活躍。織田信長の時代、信長の命により鉄甲船を建造して毛利水軍・村上水軍を破り、豊臣秀吉の時代には朝鮮出兵の際に、「日本丸」という大型軍船を建造し、水軍総大将として大船団を率いて活躍する等の功績により文禄3(1594)年、鳥羽城を築城し城主となった。

関ヶ原の戦いでは、嘉隆は西軍に加わり、家督を譲った息子・守隆は東軍に属し、親子で敵味方に分かれ戦うも西軍は敗れ、嘉隆は、 鳥羽・答志島で自害した。(慶長5(1600)年没、享年58歳)

嘉隆の子・守隆は、父の菩提を弔うため鳥羽・大福寺(曹洞宗・永平寺派)を改築し九鬼家の菩提寺として「常安寺」と改めた。同寺には、嘉隆、守隆親子のほか九鬼一族の墓が安置されている。関ヶ原の戦いの際、嘉隆、守隆は別々の家紋を掲げて争ったことから、九鬼家の菩提寺である常安寺には二つの家紋(嘉隆の"三つ頭右巴"、守隆の"七つ星(七曜))が屋根瓦に残されている。(⑩-1

なお、嘉隆が自害した答志島島内には、嘉隆の首、胴が別々の場所に「首塚」、「胴塚」として祀られている。(-2)

また、嘉隆ゆかりの伊勢・金剛證寺(臨済宗南禅寺派)には、嘉隆肖像画のほか嘉隆ゆかりの品が残されている。嘉隆死後、三男有慶がその菩提を弔い同寺に出家して第12世(住職)となった。 (-3)


関連資料

  • 九鬼嘉隆画像(常安寺蔵)
  • 常安寺
  • 九鬼一族の墓(常安寺)

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