②鳥羽造船所(現・鳥羽水族館)

真珠王・御木本幸吉の要請を受け鳥羽造船所の経営に乗り出す

明治11(1878)年、東京・京橋区越前堀(現在の中央区新川)で小規模造船所「福沢造船所」を経営していた福沢辰蔵が鳥羽城二の丸の海岸に開いた小船渠に旧鳥羽藩の士族らが出資し創業した「鳥羽造船所」が起源。

明治22(1889)年、地元の有力者らの経営に移り「鳥羽鉄工所」に改称、明治24(1891)年、度会郡の造船所を合併して「鳥羽鉄工所造船部」とした。

その後、明治29(1896)年、安田善次郎の経営に変わり、「鳥羽鉄工合資会社」に改組、明治40(1907)年、再び「合資会社鳥羽造船所」に改称、一時300名を超える職工を抱える規模に拡大したが、経済界不振のため経営不振に陥った。

安田は当該事業から撤退し、電灯事業を(株)"中央鉄工所"に、造船事業を三重紡績系の"四日市鉄工所"に譲渡して再建が図られたが、造船不況の荒波を受け廃業寸前に追い込まれた。

大正5(1916)年、真珠王・御木本幸吉など地元民の懇請を受けた鈴木商店は、中央鉄工所および四日市鉄工所から電灯事業、造船事業を買収して旧鳥羽造船所の事業を継承、新たに「(株)鳥羽造船所」を設立して再建に乗り出した。(現在の鳥羽水族館の位置)

本格的に鳥羽造船所の経営に乗り出した鈴木商店は、播磨造船所の経営に携わっていた辻湊を急遽鳥羽造船所の経営に当たらせた。鳥羽城大手門の水門をドックとして3,000トン級の建造設備を有し、小型船舶建造を主体に運営された。

さらに船舶用や小型の電機品の必要性、将来性に着目し、電機事業の充実を図る辻の下に翌大正6(1917)年、小田嶋修三が入社、電気部を創設して電動機の開発を開始した。やがて造船部門は播磨造船所に移り、鳥羽は電気機器専門工場となった。

鳥羽造船所は、帝国汽船・造船工場、神戸製鋼所・鳥羽工場を経て昭和24(1949)年、神鋼電機として独立。同社鳥羽工場は昭和45(1970)年に閉鎖された。なおその前年、昭和44(1969)年、旧鳥羽工場からほど近い鳥羽市内に小形電動機工場が新設され、鳥羽造船所からの歴史が再び蘇った。(現在のシンフォニアテクノロジー・モーションシステム工場) 

地元の水産会社・丸幸水産により昭和30(1955)年、水族館が作られ、翌昭和31(1956)年に株式会社鳥羽水族館が誕生。手狭になった鳥羽水族館は、閉鎖された神鋼電機・旧鳥羽工場を買収した志摩電鉄(近鉄系)より同所を取得して平成6(1994)年、現在地(旧鳥羽造船所跡地)に新鳥羽水族館を建設。

新鳥羽水族館は、全長240m, 通路全長1.5kmの室内型水族館として類を見ない規模を誇る。約1,200種、30,000点の海、川の生き物を飼育する。飼育種類数は、日本一の水族館で、ジュゴンの飼育は日本唯一、アフリカマナティーと同時飼育も珍しく伊勢志摩観光の拠点として全国的に知られる。

関連資料

  • 鳥羽造船所
  • 鳥羽工場(電機部)全景
  • 鳥羽水族館

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