鳥羽造船所電機工場(現・シンフォニアテクノロジー)の歴史①

鳥羽発祥の造船事業は不振が続き、経営主体が次々に変遷

シンフォニアテクノロジー発祥の地、三重県鳥羽は古来江戸と上方を結ぶ物流の中継地で、当時の最先端造船技術を有するテクノロジー集団でもあった九鬼水軍を率いる九鬼くきよしたかが、その経験と技術を結集して建造した鳥羽城でも知られている。このヒト・モノ・情報が行き交う進取の気性に富んだ土地柄、技術を生み出す風土が今日の同社の企業文化を生み出し、育んできたと言ってもいい。

同社の歴史は明治11(1878)年、鳥羽での造船所の発祥に遡る。寛永9(1632)年、九鬼氏が内陸に転封され享保10(1725)年、稲垣氏が城主になると情勢は安定した。しかし明治2(1869)年、鳥羽藩最後の城主・稲垣長敬ながひろが鳥羽知事に任命されるも明治4(1871)年、廃藩置県によって長敬は知事を免ぜられた。

この間、鳥羽城は取り壊され、廃藩置県で職を失った鳥羽藩士たちは去就を決めかねていたが明治8(1875)年、二の丸、三の丸が士族に払い下げられると好機到来とばかりに大手門を船渠せんきょ(ドック)とし、城跡において造船所が営まれることとなった。

明治11(1878)年9月、東京越前堀の造船技師・福澤辰蔵がこの地に造船所を開設して支店とし、造船事業に勉励したが、事業開始に伴う経費が予想外に多くかかり、各支店を合併せざるを得なくなった。

こうした中、鳥羽居住の士族・稲垣幸作、山元如水(三重県議会の初代議長)らは造船所が衰退することを憂い、同造船所を何とか維持・発展させ、生活に困窮している士族に就業の場を与えようと福澤にはかり明治11(1878)年12月、合資して協力することで合意し洋式船を建造する「鳥羽造船所」が開業した。

明治18(1885)年12月に発足した第一次伊藤博文内閣の大蔵大臣、松方正義のデフレ政策が強く影響し、わが国は翌明治19(1886)年を頂点にして不況が到来した。この不況により鳥羽造船所は受注のない状態が続いたため、造船所の施設一切が阿保市太郎ほか数人の出資者に売却され、社名も「鳥羽鉄工株式会社」(資本金10万円・株主30人・職工150人)に改称された。

鳥羽鉄工では直ちに船渠を改造し、伊勢大湊に造船部を設置して船舶の新造・修繕に乗り出したが、引き続き業績は低迷を続けた。このため、明治24(1891)年の春、伊勢神社かみやしろ港の造船所を合併して「鳥羽鉄工所造船部」とするなど経営不振の打開策を講じたが、功を奏しなかった。さらに、明治26(1893)年になると、横浜の事業家・八巻道成が土地・船渠・各工場・機械の一切を買収して事業を再開しようとしたが、これもまた失敗に終った。

しかし、明治29(1896)年を迎えると情勢は一変する。当時造船所は「合資会社鳥羽鉄工所」という社名で久保村活三なる人物が社長であったが、経営難に陥り東京の華族株主が旧佐賀藩主・鍋島なおひろ公爵を通じて、安田銀行頭取で後の安田財閥の祖・安田善次郎に鳥羽鉄工所の援助を依頼した。

同年6月、安田は自ら同社を視察した結果、安田銀行が5万円の融資を決定するとともに、同年9月には安田ほか5人が合資し、同社の資産一切を買収して資本金20万円の「鳥羽鉄工合資会社」を設立した。

当時は明治28(1895)年4月に日清戦争が終結し、わが国の経済は大きな躍進期を迎えており、戦争中の船舶不足の経験から政府により造船業の育成・強化策が実施された時期でもあった。明治30(1897)年3月1日、安田系となった鳥羽鉄工はこうした情勢を背景に事業を再開し、船渠の拡張、海面の埋め立て、自家発電設備の新設などを実施し積極経営を展開した。その結果、業績は隆盛をたどり明治40(1907)年3月、社名を「合資会社鳥羽造船所」に改称した。

当時の船渠は石造りの2基で、第1船渠は2,000総トン、第2船渠は4,500総トンの収容能力を有していた。船渠の他にも数基の船台が備えられ1,000総トンまでの鋼船、木船が盛んに建造された。

また、造船所内に火力発電所を設置し、工場の原動力を蒸気から電気に転換するとともに、明治42(1909)年には余剰電力を鳥羽の町に供給し、電灯事業を開始した。さらに、造船事業から派生して自社所有汽船による伊勢航路を手掛けた。当時の地元紙「伊勢新聞」は、鳥羽造船所が鳥羽の発展に大きく貢献していることを報じている。

しかし、明治38(1905)年9月の日露戦争終結とともに造船ブームは過ぎ去り、過剰設備を抱えた造船業界はたちまち深刻な不況に見舞われた。浦賀船渠、川崎造船所、大阪鉄工所といった大手の造船所も整理を余儀なくされる中の明治44(1911)年6月、さすがの安田も造船事業を諦めざるをえず、鳥羽造船所は休業となり、電灯事業のみ安田商事会社が直営するといった事態となった。

大正2(1913)年8月、造船所の電灯事業は三重紡績(*)傘下の中央鉄工所に、造船事業は同じく三重紡績系列の四日市鉄工所にそれぞれ譲渡され事業の建て直しがはかられたが、不慣れな造船事業には打つ手もなく、廃業寸前の状況に陥った。

(*)三重紡績は渋沢栄一の支援と地元資本を得て設立され、当時は大阪紡績、鐘淵紡績を並ぶ日本最大級の紡績会社であり、翌大正3(1914)年には渋沢の口利きで大阪紡績と合併して東洋紡績となった。

当時の鳥羽には造船所の他には工業らしい工業もなく、労働者の多くが造船所に頼っていたことから、鳥羽造船所の苦境は地元にとっても深刻な事態であった。そこで急遽、地元の有志が集まって善後策を講じた結果、神戸の鈴木商店に窮状を訴えて同社の経営参加による危機の打開を懇請することになった。

鳥羽造船所電機工場 (現・シンフォニアテクノロジー)の歴史②

  • 現在の鳥羽城址
  • 明治35年頃の鳥羽鉄工
  • 当時の鳥羽の電灯

    廣野屋(現・郷土資料館)前

TOP