鳥羽造船所電機工場(現・シンフォニアテクノロジー)の歴史④
困難を乗り越えて人造絹糸(レーヨン)製造の心臓部・ポットモータの開発に成功
大正7(1918)年11月に第一次世界大戦が終結すると、時が経つにつれて産業も戦時産業から平和産業へと移り変わり始めた。戦時船舶として需要が高かった貨物船は客船、漁船へと転換し、航空機産業においても飛行機の民間利用が盛んになった。また、繊維産業においても欧米では人造絹糸(レーヨン)など新たな素材が注目され始め、各種産業が大きな転換期を迎えていた。
「鳥羽電機製作所」はこうした情勢の変化に対応して次々に新しい製品の開発を手掛けていたが、帝国汽船鳥羽造船工場の造船部門は好況を続けているにも関わらず電機部門はさっぱり不成績で、肩身の狭い思いをしながら懸命の努力を続けていた。
このような状況下、先進国の最新技術を吸収するため欧米視察の必要性を痛感していた小田嶋修三は辻湊に同意を得ると大正9(1920)年7月21日、横浜港から欧米視察に出帆した。この視察は1年半もの長きにわたるが、各地の数多くの電機各社での見聞がその後の社業の発展に大きく貢献することになる。
大正9(1920)年1月、鳥羽電機製作所は鈴木商店系列の東工業から人絹部門(米沢工場)が独立した帝国人造絹糸(現・帝人)の依頼により、「ポットモータ」の試作を開始した。帝国人造絹糸の技師長・久村清太は人造絹糸の毛羽を防ぐため新設の広島工場において「トッパム紡糸法」の採用を決断したが、この方法についてはポットモータを使用することは分かっていたが、外国の書物以外の知識はなく非常な冒険と言わざるを得なかった。
当時、世界の繊維業界では人造絹糸の生産に関する技術開発が競われており。その製造技術は秘中の秘であった。中でも繊維を高速で巻き取るポットモータは人造絹糸製造の心臓部であり、技術開発の焦点となっていた。
当初、帝国人造絹糸はポットモータの製作を神戸製鋼所に依頼したが、希望に近い回転数(毎分5,000回転)を実現することができず、やむなく他の大手メーカーに依頼したがやはり同様の回答であった。久村が困っていると聞いた金子直吉は辻湊に相談した結果、鳥羽電機製作所へポットモータの試作を依頼することになった。
小田嶋が欧米視察で不在の間、鳥羽造船工場の電機部門の責任者は高田通理技師が担当し、ポットモータの試作・開発も高田の下で行われた。高田ら技術陣は周波数を60サイクルから90サイクルにすることにより毎分5,400回転を実現しようと奮闘する。これは当時としては異例中の異例の設計であり、成功するには並大抵のことではなかったが、高田は電機部門の不振を一身に受け止め、日夜困苦忍耐の上良く部下を統率し、この難事業の基礎を築き上げた。
大正11(1922)年2月に小田嶋が欧米視察から帰国すると、小田嶋、高田らを中心にポットモータの改良に腐心し同年8月、試作の依頼を受けてから2年半にして、8分の1馬力・90サイクルのポットモータ70台が帝国人造絹糸に納入された。これが日本で最初の本格的なポットモータの製造であり、ついに製品としての正式受注が決定した。
ポットモータはその後も改良が続けられ大正13(1924)年9月、8分の1馬力、2極、100V、100サイクル、毎分6,000回転という極めて高性能なポットモータの試作に成功する。大正14(1925)年には、当時画期的な最新鋭工場戸いわれた帝国人造絹糸の岩国工場をはじめ広島、米沢の各工場に実に1万台余りが納入された。
こうして、ポットモータは鳥羽電機製作所における最大のヒット商品となり、鳥羽造船工場の電機部門を一気に飛躍させる原動力となった。その結果、同電機部門は創業以来累積していた赤字をわずか1年にして挽回して最初の利益を生み出し、以後黒字を計上できるようになった。
高田通理はポットモータの開発のみならず、欧米滞在中の小田嶋からの報告に基づいてウインチ(巻上げ機)用三相交流誘導機の標準型を完成させ、大量生産に向けた準備を整えている。しかし、高田は激務がたたって結核に冒され、自宅療養中も若手技術者に技術を伝授していたが昭和2(1927)年に惜しまれつつこの世を去った。
このポットモータは昭和の時代に入ると、田宮嘉右衛門の後継社長となる神戸製鋼所の浅田長平をして「当時の業界を驚嘆させた」と言わしめる記録的な大量受注を神戸製鋼所の「鳥羽電機製作工場」として実現し、繊維業界に一大革命をもたらすことになる。
大正9(1920)年3月の証券市場の大暴落を機に、第一次世界大戦終結後も続いていた好況が終焉を迎え、以後わが国経済は以後深刻かつ長期にわたる反動不況の荒波に翻弄されることになる。とりわけ重工業は、一般経済界の不況に加えて大正11(1922)年2月にワシントン軍縮条約が成立したことにより、わが国の「八八艦隊」建造(*)という海軍大拡張計画が中止になるに及んで、打撃は一層深刻なものとなった。
(*) 戦艦8隻・巡洋戦艦8隻の建造を主軸とし多数の巡洋艦・駆逐艦を建造するという大艦隊整備計画。アメリカ海軍が立てた新戦略「戦艦10隻・巡洋戦艦6隻」に対抗する計画であったことからこのように呼ばれた。予算は大正9(1920)年の第43議会で通過し、建造費はわが国の国家予算レベルの莫大なものになる予定であった。
反動不況により打撃を受け業績が悪化の一途をたどっていた鈴木商店は、金子直吉が「八八艦隊」建造による軍需拡大をあてにした起死回生策も不発に終わり、鈴木商店系列の企業は大きな打撃を受けた。神戸製鋼所では需要増大に備えて大型機械の一貫製作を行う製鋼、鋳鋼、鍛鋼各工場を建設したが、一転して400名の人員整理、民需への方向転換を余儀なくされた。
この間、鈴木商店は反動不況が予想以上に深刻になったことから帝国汽船の造船部を廃止することになり大正10(1921)年2月15日、同社の播磨造船工場と鳥羽造船工場はやはり鈴木商店系列の神戸製鋼所に合併された。この合併は前記小田嶋修三の外遊中の出来事であった。