鳥羽造船所電機工場(現・シンフォニアテクノロジー)の歴史⑥

ポットモータの生産が黄金期を迎え、飛躍の時代が到来

昭和2(1927)年8月、神戸製鋼所電機製作工場は装いを改め、神戸製鋼所「電機部電機製作工場」として再出発し、工場長には小田嶋(おだじま)(しゅう)(ぞう)が就任した。この時、鳥羽の電機製作工場の規模は縮小され、建屋の面積は奇しくも創業(大正6年5月1日)当時と同じ100坪余り、従業員は250人となった。

再出発にあたり、小田嶋は京都帝国大学電気工学科同期の鳥養(とりがい)()三郎(さぶろう)教授(後・京都大学総長)を顧問役に迎え、電機部門の将来について検討を重ねた。鳥養教授は田中卓次(後・神鋼電機常務取締役)、(とみ)満通(みつみち)()(後・神鋼電機第3代社長)、西尾又一(またかず)(後・神鋼電機専務取締役)をはじめ、教え子の中から多くの人材を鳥羽電機製作工場へ送り込み、鳥養は技術面のみならず人材面でも大きく貢献した。

鈴木商店の経営破綻後、神戸製鋼所は台湾銀行の支配下に置かれ昭和3(1928)年3月、海軍主計中将・永安晋次郎が社長に、田宮(たみや)()右衛()(もん)が専務取締役に就任した。また、取締役電機部長には海軍主計大佐・遠藤寿一が就任し、電機事業の経営に当たることとなった。

昭和初期の日本経済は昭和2(1927)年の金融恐慌、昭和4(1929)年に起こったアメリカ発の世界恐慌など相次ぐ恐慌に見舞われ、鳥羽電機製作工場も深刻な不況から逃れることはできず苦境が続いた。再出発後の鳥羽電機製作工場は、主として船舶、紡績、製鉄、ポンプなどの各種電動機の製作が中心となったが、そんな中でも技術開発に励み、積極的に新製品を送り出していった。

昭和5(1930)年、神戸製鋼所(現・コベルコ建機)に南満州鉄道から()(じゅん)炭鉱での電気ショベル開発の話が舞い込み、電機品一式を鳥羽電機製作工場が受け持つことになった。設計担当者は満州で米国製のショベルをスケッチし、それをもとに苦心惨憺の末に昭和5(1930)年に誘導電動機が完成し、国産建設機械第1号機となった電気ショベル50Kに採用された。

昭和5(1930)年、鉄道省より同工場の蓄電池式運搬車が欧米品と比べ遜色ない旨の表彰を受け、さらに同年、土木建設工事用電気機関車の1号機を製作。昭和6(1931)年には電気ドリルと卓上グラインダ(研磨機)を開発し、後に電動工具の代表メーカーとなる基礎を築いた。昭和7(1932)年には蓄電池式機関車1号を軍向けに納入している。

昭和8(1933)年の半ばになると人造絹糸の輸出が急増し、わが国の人絹工業は驚異的な発展期を迎えた。既存メーカーの設備増強や新規業者の参入が相次ぎ、昭和6(1931)年には全国7工場であった人絹工場が昭和9(1934)年には26工場と急増し昭和12(1937)年、ついに人造絹糸の生産高がアメリカを抜いて世界1位を記録した。大正13(1924)年には高性能の人造絹糸用ポットモータを完成し、その後も研究改良を加え、50数件の特許や実用新案を獲得していた鳥羽電機製作工場にとって、当時は願ってもない飛躍の時代であった。

その頃になると、ポットモータの性能は画期的に向上し、昭和10(1935)年当時欧米のポットモータの回転速度が毎分6,000回転であったのに対し、鳥羽電機製作工場は毎分1万2,000回転という世界水準をはるかに凌駕する製品を完成していた。ポットモータの高速化による紡糸機のスピードアップは、繊維業界の生産量を格段に増大させ、著しいコスト低減をもたらした。その結果、ポットモータはわが国繊維産業を世界の頂点にまで押し上げた立役者、と評されるまでになった。

当然需要は急増し、鳥羽電機製作工場のポットモータの生産量は、昭和8(1933)年には年間3万5,000台、翌昭和9(1934)年には7万3,000台を記録した。戦前の累計では25万台という驚異的な数字を達成し、輸入品を駆逐して国内人絹工場のポットモータの需要の90%を鳥羽電機製作工場で独占した。

一般交流電動機の分野も研究・改良が加えられ「鳥羽モートル」のブランド名が定着した。昭和6(1931)年には小形電動機としてポットモータの廃材を利用した蓄音機用フォノモータの製作・販売を開始し、「赤トバ」の愛称で全国にその名を轟かせた。

この時代を代表する製品に、航空機用エンジン直結式発電機と自動電圧調整器がある。昭和11(1936)年、ポットモータの技術を応用したエンジン直結式発電機が陸軍から正式に採用され、この発電機の電圧を自動的に一定にする調整装置もあわせて採用された。

昭和9(1934)年8月13日、神戸製鋼所では従業員の声と陸海軍の後押しにより田宮嘉右衛門が社長に就任し、浅田長平は取締役から常務取締役に就任。ここに苦楽を分け合ってきた田宮、浅田ラインが同社の経営の中枢を押さえることになった。

昭和12(1937)年4月、朝日新聞社は国産機「神風号」により、外国の著名な航空機が次々に失敗した難コース「欧亜連絡飛行」に初めて成功するという快挙を成し遂げたが、この神風号に装備されていたのが、鳥羽電機製作工場製の無線電信および照明用としての機上エンジン直結式発電機と自動電圧調整器であった。シンフォニアテクノロジーは今日まで航空機用電装品について高い評価を受けているが、その基礎はこの時代に築かれたといっていい。

昭和11(1936)年には電気バスを開発し、大阪乗合自動車(後・大阪市営バスと合併)と大阪市営バスに納入。電気バスは、戦前だけで神都交通(現・三重交通)、大阪市、関西急行鉄道(現・近畿日本鉄道)、両備バスなどに合計54台が収められた。

昭和14(1939)年、内閣府統計局よりパンチカード式の統計機のための手動式穿孔機の注文を受け、同局ほか外地総督府、官庁などにも納入された。また、神戸製鋼所がスイスのエッシャー・ウイス社の特許を取得し、三越百貨店に納入する特殊小形冷蔵庫を製作することになったが、鳥羽電機製作工場はその電気部分を担当した。

鳥羽電機製作工場はこうした斬新な新製品開発を行いながら一時の不振を払拭し、業績は急上昇していった。昭和10(1935)年8月、小田嶋は神戸製鋼所取締役に就任し、電機部長を務めた。翌昭和11(1936)年には小田嶋が設立に尽力した鳥羽造船所職工養成所を発展させた「鳥羽電機青年学校」が開設された。

鳥羽造船所電機工場(現・シンフォニアテクノロジー)の歴史⑦

  • 海に臨む鳥羽工場

    後方は鳥羽城址

  • 鳥羽工場(昭和10年頃)
  • 鳥羽工場の製品が装備された朝日新聞社の国産機「神風号」

    昭和12年4月、欧亜連絡飛行(東京-ロンドン間)に世界で初めて成功した。

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