鳥羽造船所電機工場(現・シンフォニアテクノロジー)の歴史⑨
わが国の高度成長期を逸早くとらえ、業績回復から飛躍的な発展を遂げる
昭和25(1950)年1月の社債発行(1億円)により急場をしのいだ神鋼電機であったが、戦後不況の影響は依然として色濃く残り同社の悲観的な状況は変わらず、そのままでは抜き差しならない危機的状況に陥るのは必至であった。同年3月、苦渋の中で杉本正幸社長は約500人という大幅な人員整理を含む第二次合理化案を発表した。
労使の交渉は難航し同年4月29日、団体交渉は決裂し労組は24時間ストを決行すると、さらに無期限ストを会社に通告した。会社も指名解雇、ロックアウト(全工場の閉鎖)をもって対抗するなど膠着状態が続いたが、その後穏便な解決を望む第二組合が結成されたことにより争議はようやく収束に向かい6月15日、全面解決に至った。
昭和25(1950)6月25日、朝鮮戦争が勃発し日本経済に特需景気が到来したが、神鋼電機にとっては受注は増加したものの、逆に原材料価格の暴騰により採算が悪化する結果を招き、赤字基調が続いた。昭和26(1951)年に入ると親会社の神戸製鋼所はこうした神鋼電機の窮状を見かね、同社の在庫調査を実施し、生産に必要な資材を安価で供給するという形で緊急援助を行った。
この援助を機に神鋼電機はようやく苦境を切り抜けると、人絹用ポットモータ、各種発電機・電動機、蓄電池式車両、電気ショベル、土建機械用電機品、船舶用電装品、電動工具、レジスターその他の新製品の受注が急増し、昭和26(1951)年度上期には同社発足後初の利益を計上することができた。
昭和27(1952)年に入ると神鋼電機は業績好転を機に財務体質の改善に乗り出し、自己資本を充実させるべく、まず同年2月と3月に、それぞれ大阪と東京の両証券取引所に上場を果たし、その上で倍額増資(新資本金は2億円になる)を実施した。また、第1回に引き続き幹部が地方銀行を回って社債の引受先を確保し、第2回社債1億円を発行した。
しかし、好況状態は長くは続かず昭和26(1951)年春を境に内外の市況は次第に低落し、ポットモータ、紡績用モータ、自家発電用発電機などの注文が激減した。昭和28(1953)年4月、同社は社内体制の抜本的な改革に乗り出し、従来の受注本位の生産・販売体制から市場予測に基づく計画生産・計画販売中心の体制へと切り換えた。
計画生産・計画販売による事業拡大が軌道に乗ろうとしていた矢先の昭和28(1953)年9月25日、鳥羽工場、山田工場は紀伊半島に上陸した台風13号(国際名:テス)の直撃を受け甚大な被害を蒙った。これに追い打ちをかけるようにいわゆる「(昭和)29年不況」が同社に襲いかかり、受注・販売ともに激減し製品在庫が増大した。同社は昭和29(1954)年度下期、昭和30(1955)年度上期ともに経常損失を計上し、その後の重大な経営危機へとつながっていった。
昭和29(1954)年11月、杉本社長は極度の疲労による心筋梗塞を患う中、任期満了とともに社長を退任した。不況、財政難、労働争議、天災等あらゆる面において経営難の時代に神鋼電機の初代社長に就任した杉本は、病躯を押してひたすら戦い抜き同社の基礎を築いたが、まさに刀折れ矢尽きての退陣となった。昭和41(1966)年4月16日、杉本はついに不帰の人となったが、杉本の残した功績は決して小さくはなかった。
昭和29(1954)年11月、杉本に代わり、以前鳥羽工場で経理課長を務めていた中井義雄(*)が第2代社長に就任した。中井は神戸製鋼所常務取締役からの転身で、神鋼電機再建の大役を担っての就任であった。
(*)中井は小樽高商卒業後に鈴木商店に入社し、上海支店において支店長代理として活躍。鈴木商店破綻後は神戸製鋼所に転じた。
昭和30(1955)年5月、中井は計画生産・計画販売による経営方針を改め、かつての受注本位の生産に注力して生産の縮小をはかり、業容に見合った経営に立ち戻ることを主眼とした751人の人員整理を含む再建合理化案を提唱した。この再建合理化案を巡って労使の交渉は21回にも及んだが、労組も会社の置かれた窮状を理解し、基本的には終始協力的であった。
同社は受注生産に力を注ぐ方針に切り換えたことにより、生産機種の思い切った整理にも着手し、電気冷蔵庫、洗濯機、扇風機、ミキサーなど家庭用電化製品の生産・販売を中止し、これに代わって特殊性のある独自の製品の開発を最優先し、その選定に当たっては「神鋼電機ならでは」がその大前提に置かれた。
その代表的製品として航空機用電装品、化繊用スピンドルモータ、船舶用電装品、各種自動制御装置、産業車両、リフマグ(リフティングマグネット)、電磁クラッチ・ブレーキ、電磁振動機などが選定され、重点的に増産をはかることとなった。中でも航空機用電装品には大きなウエイトがかけられ、同社再建の一翼を担う有力な事業として成長していった。また、クラッチ・ブレーキ総合メーカー、振動機器総合メーカーとしての体制も整えた。
時あたかも、わが国が神武景気から岩戸景気へと続く高度成長期に突入した時期に当たり、とりわけ電器産業の成長は目覚ましく、同社は一転して急激な受注増加に直面した。これに対応するため既存設備をフル稼働して増産をはかったが、受注を消化することができないため、急遽各工場の増築と設備の更新・増強に努め、急増する需要に対応した。
中井は「受注とは技術の勝利なり」という標語を提唱したが、同社は好景気による既存製品の需要増加だけでなく、産業構造の重化学工業化に対応した積極的な新製品の開発もここにきて開花し、機械、鉄鋼、造船、航空機、化学工業などに幅広く進出していった。昭和41(1966)年のビートルズ来日の際に使用された同社のダグラスDC-8型機用パッセンジャステップが開発されたのもこの頃である。
昭和34(1959)12月、「受注および売上の予測」「設備および資金計画」「労働生産性の向上」を基本方針とした同社初の本格的な5ヵ年計画が策定され、設備投資の目玉として豊橋工場(愛知県豊橋市二川地区)の建設が決定し、山田工場は設備投資の最重点工場となって面目を一新し昭和35(1960)年3月、「伊勢工場」に改称した。
生産の繁忙に伴い、それまで1,500人台に抑えられていた従業員数は昭和38(1963)年3月末には2,867人(本社・営業所326人、鳥羽工場1,151人、伊勢工場1,132人、東京工場258人)に急増した。
また、業容の拡大に伴い増資を実施し、昭和33(1958)年に4億円であった資本金は昭和37(1962)年4月には30億円に達した。売上高で見ると、昭和29(1954)年度下期の9億7,100万円に対し、昭和36(1961)年度上期には43億2,000万円に急増した。日本経済の高度成長期と軌を一にしたという幸運に遭遇したとはいえ、この時代にいかに同社が飛躍的な発展を遂げたかが理解できるだろう。