鈴木商店スラバヤ出張所
鈴木商店にとっては正に"宝庫"となったジャワ糖の取扱いで他社を圧倒
鈴木商店スラバヤ出張所の開設は、大正7(1918)年。
第一次世界大戦終結後の先高を見越し、鈴木商店は大正9(1920)~大正10(1921)年にかけてジャワ糖の一大買い占めを敢行。買い付けたジャワ糖は、内地向けの他、ヨーロッパ、アフリカ、近東、中国、東南アジア向けに積み出した。
大正8(1919)年末、鈴木商店本店砂糖部に所属し砂糖に精通していた上村政吉(34歳、当時)を急遽スラバヤに派遣、当時ジャワ糖の大手・フレザー・エトン社や建源号を相手に買い占めを進め目覚ましい成果を挙げた。
ジャワ糖の相場は、大正9(1920)年3月より上向き、4月以降天井知らずの沸騰状態となり、未曽有の新高値を記録。上村は、大正11(1922)年までスラバヤに駐在、その間、ジャワ第一の建築・エドカーの大邸宅やクラポンクの大別荘を買収し、駐在員の宿舎に活用した。(大正12(1923)年2月27日~9月2日 大阪毎日新聞連載「関東・関西の財閥鳥瞰(1~157)のうち、(61)貿易商としての鈴木」)(上部の写真は、スラバヤ出張所宿舎、上村政吉アルバムより))
上村の後任として大正11(1922)年、寺崎栄一郎をスラバヤに特派、寺崎がニューヨーク支店長に転任となると大久保弥十郎がシンガポールより赴任した。
大正11(1922)~大正15(1926)年12月までスラバヤに駐在した宇津木亥一の時代、スラバヤ出張所の業績はさらに飛躍し、ジャワは、鈴木商店にとって正に"宝庫"だったと云う。ジャワ全島の砂糖生産量年間290万トンの2割を超える取扱いにより首位を占め、年間数億ギルダー(約470億円)の実績を挙げた。(写真は、スラバヤのサトウキビ集荷・加工場)
日本人の駐在員は、24,5歳の独身者グループが4名、35,6歳の単身赴任者が11名、所長を含め総勢16名の陣容で、毎年4月のイースター明けには乾季を迎えるとジャワ糖の積み出しは超繁忙期に入り、スラバヤには移動駐在員や本店からも応援部隊が入り、歳末の降誕祭まで続いた。
また、ジャワ糖以外、サクラビールの取扱いも行ったが、海外ブランドとの競争は容易ではなかったようだ。宿舎は、スラバヤ最大の邸宅でテニスコートを備えた2階建ての立派な建物、日本人コックによる賄い付きだったと云う。(たつみ第12号「スラバヤ懐古」宇津木亥一)