太陽曹達(後・太陽産業、現・太陽鉱工)の歴史①

鈴木商店は天然ソーダの輸入販売を目的とする太陽曹達を設立

大正6(1917)年、鈴木商店は貿易年商が15億4,000万円に達し、三井物産をも圧倒して日本一の総合商社となるが、鈴木商店の貿易高を飛躍的に伸長させたのはロンドン支店の高畑誠一であった。

大正3(1914)年7月、第一次世界大戦が勃発すると開戦3か月後の同年11月、あらゆる商品の暴騰を予想した本店の金子直吉は全ての商品・船舶に対する "一斉買い出動" の大方策を決定した。金子が最初に目を付けたのが "鉄"で、ロンドンの高畑に宛てて「BUY ANY STEEL,ANY QUANTITY,AT ANY PRICE」(鉄と名のつくものは何でも金に糸目をつけず、いくらでも買いまくれ)という異例の電報を発信した。

さらに翌大正4(1915)年11月、金子はロンドンの高畑ら3名に宛てて、後に「天下三分の宣誓書」と称される並々ならぬ決意を披歴した気迫溢れる長文の書簡を送り、更なる大躍進を遂げていくに当たっての大号令を発した。

裁量の一切を任された高畑は、大英帝国といえども鈴木商店にとっては一介の客に過ぎぬ、という気概に燃え、イギリス政府、連合国を相手に鉄(銑鉄、鋼材)、砂糖、小麦など大戦で値上がりが予想される商品を猛然と買い集め、また当時としては未開の三国間貿易を積極的に推し進めるなど、その手腕を遺憾なく発揮し、鈴木商店に莫大な利益をもたらした。

高畑は合名会社鈴木商店の株式会社への組織変更を支配人・西川文蔵を通じて金子に強く具申するなど鈴木商店の組織の近代化をはかる諸施策の実現を次々に要求する一方で、アンモニアの直接合成を実現する空中窒素固定法(フランスのクロード法)の特許権獲得をはじめ、世界を視野に入れた業績を次々にあげていった。

太陽曹達設立の直接のきっかけとなる英国・マガディソーダ社(Magadi Soda Co.,ltd.)が販売するイギリス領ケニア(アフリカ)の天然ソーダ(炭酸ナトリウムの俗称で化学式:Na2CO3)の一手販販売権獲得に尽力したこともその一つであった。

第一次世界大戦が勃発すると同時に、わが国はヨーロッパからガラス、製紙、ビールその他諸工業に必須のソーダの輸入が途絶したため、大正7(1918)年1月頃にはその値段は平時の3倍以上に達しており、金子直吉は時の農商務大臣・仲小路なかしょうじれんからソーダ自給の方策について相談を受けた。

同年2月、磯部房信(*)は金子の命を受けてソーダ工業を満州に起業することを前提としたソーダ製造の研究とアンモニア合成法の調査のため渡米し、5カ月にわたり東奔西走してソーダ製造については米国の資本家との提携を試み、アンモニア合成についてはジェネラルケミカル社のGC法について調査するため苦心惨憺の旅を続けた。しかし、あらゆる努力を傾注するもほとんど成果はなく、同年6月に帰国する。

(*)大正4(1915)年、鈴木商店が神戸製鋼所(神戸・かるじま)に建設した硬化油パイロットプラントにより実質的にわが国で初めて硬化油の工業的製造に成功した際の鈴木商店の技術陣の一人。同年、磯部は鈴木商店が南満州鉄道(満鉄)から委譲を受けた「満鉄豆油製造所(大連油房)」(後・鈴木商店製油所大連工場、豊年製油大連工場)の工場長としてまん。大正6(1917)年、大豆油日産500トンの清水工場をはじめ横浜工場、鳴尾工場を建設すると、須水、横浜、鳴尾、大連の4工場を監督。大正11(1922)年、鈴木商店がアンモニア合成を目的としたクロード式窒素工業を設立し大正13(1924)年、彦島製錬所(山口県豊浦郡彦島町)構内に建設した試験工場で超高圧利用による合成アンモニアの生産に成功した際の技術監督。

同年7月中旬、英国・ブラナーモンド社(Brunner,Mond & Co.,Ltd.)(後・ICI社)の社員が磯部を訪ねて来た。磯部が鈴木商店としてソーダ工業を起業するため、渡米して資本家と提携しようと努力していたことを伝え聞き、鈴木商店と提携しようと、はるばる英国から磯部の後を追って来たということであった。

磯部は直ちに同社と意見交換を行い、磯部の申し出を承諾した日本プラナーモンド社の専務・ウートンと3人で大連に渡り、鈴木商店傘下の大日本塩業(現・日塩)の関東州の塩田を視察して7月下旬に神戸に戻ると、間もなく上京すると鈴木商店本店焼き打ちの報に接する。

大正8(1919)年1月、磯部は単身、英国・プラナーモンド本社(イングランドのチェシャ―州・ノースウィッチ)を訪問し、満州の塩田を基礎とする両社の共同出資によるソーダ工場の建設について議論すること1週間、同社役員の態度は一変した。

大いに議論を闘わしたが、先方は10名、当方は磯部一人で、結局磯部は「(大戦の趨勢としてドイツを中心とする同盟国側の敗北が決定し)平和回復の曙光しょこうが見えた今日、何を苦しんで経済的にソーダ製造に不利な工業を極東に興す必要があろう。君はもう必要ないから帰れ」と促されたのであった。

これに対し、磯部は憤怒の余り「貴社の後援なしに、単独でソーダ工業を満州に起こすから覚悟せよ」と啖呵を切ったところ、同社のロスコ―・プラナー社長は笑って「当社は世界ソーダ界の権威である。貴君の満州における単独のソーダ工業の計画に対してはどこまでも競争を辞さない。当社は過去60年間、あらゆる世界のソーダ会社を敵として、これを征服した歴史がある。将来と言えども、アフリカの天然ソーダ以外に世界のどこに興る化学ソーダ会社とでも競争してこれに打ち勝つ確信がある」と暗々裏に鈴木商店の単独計画を戒めたという。

"アフリカの天然ソーダ以外"、同社社長のこの一言は磯部にとっては天来の一大福音であった。プラナーモンド社が天然ソーダには脅威を感じていることが確認でき、進むべき道はアフリカの天然ソーダ以外に何物もないと確信した磯部は迷わず鈴木商店ロンドン支店に赴いた。

磯部は、鶴首かくしゅして彼の到着を待っていたロンドン支店長の高畑誠一に一部始終を語り、アフリカの天然ソーダに着眼する計画を相談したところ、商機に特別の慧眼を有する高畑は直ちに賛成した。

その後、約5カ月にわたって高畑と磯部は歩調を一にして、鈴木商店の取引先である英商・サミユル商会に対してあらゆる努力を傾注し、大戦のため瀕死の状態に陥っていた同商会の管理下にあった英領東アフリカ(ケニア)のマガディ湖(Lake Magadi)にある英国・マガディソーダ社の業容の回復に務めた。

そして、遂に二人の努力が実を結び、鈴木商店はマガディソーダ社が販売するマガディ湖産天然ソーダの東洋における一手販売権を獲得した。

この時の契約に基づいてソーダの輸入販売会社として設立されたのが太陽曹達(後・太陽産業、現・太陽鉱工)である。大正8(1919)年10月1日、合名会社鈴木商店で同社の創立総会が開かれ、次のとおり役員が選任され、磯部も鈴木商店の幹部とともに名を連ねた。

取締役社長 鈴木岩蔵、取締役 高畑誠一、松本褒一、磯部房信、松原清三、監査役 永井幸太郎、 芳川筍之助

太陽曹達は翌大正9(1920)年からソーダの販売を開始したが、ブラナーモンド社との間で熾烈な販売競争が起こった。その結果、ソーダの価格は急低下し、このことがわが国に破格の安価なソーダを供給する結果となり、ガラス、製紙、ビールほか諸工業の発展に大いに寄与するところとなった。

その後、ブラナーモンド社は太陽曹達に対抗するため、イギリスでマガディソーダ社の株式の過半数を買占め、ついにマガディソーダ社を自社の管理下に置いた。しかし、結局太陽曹達はブラナーモンド社と新たにマガディソーダ社が日本で販売するソーダの一手販売権に関する協定を締結し、以前と変わることなく日本国内にマガディソーダ社のソーダの供給を続けることができたのであった。

太陽曹達(後・太陽産業、現・太陽鉱工)の歴史②

  • 高畑誠一
  • 金子直吉
  • イギリス領ケニア・マガディ湖のマガディソーダ社のソーダ工場

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