太陽曹達(後・太陽産業、現・太陽鉱工)の歴史②

鈴木商店の経営破綻と太陽曹達による旧鈴木系企業復活への始動

大正中期には三井物産を凌駕りょうがするまでに成長した鈴木商店であったが、第一次世界大戦の終結(大正7年11月)に伴う反動恐慌ともいうべき大不況により受けた打撃は、その成長が急であっただけに甚大で、これを機に鈴木商店の業績は悪化の一途をたどり始めた。

そして、関東大震災の発生(大正12年9月1日)に伴い決済不能となった震災手形を救済することを目的とした「震災手形二法案」(「震災手形善後処理法案」と「震災手形損失補償公債法案」)の法案審議の最中に発生した「昭和の金融恐慌」に翻弄ほんろうされつつ昭和2(1927)年4月2日、主力銀行・台湾銀行から融資打切りの最後通告を受けた鈴木商店は万策尽きて経営破綻を余儀なくされた。

これに伴い、鈴木商店の関係会社の解体・整理は台湾銀行によって進められ、関係会社は既存・新興財閥に移譲されたもの、台湾銀行の管理に移った後に自主再建されたもの、解散・整理されたもの、あるいはその他の企業の経営に移ったものなど様々な道を歩むこととなった。台湾銀行の管理に移った後に自主再建を果たした企業は神戸製鋼所、帝国人造絹糸(現・帝人)、豊年製油(現・J-オイルミルズ)、旭石油(後・昭和シェル石油、現・出光興産)、そして太陽産業(太陽曹達の後身)などであった。

高畑誠一(元・鈴木商店ロンドン支店長)と永井幸太郎(元・鈴木商店本店総支配人)の二人はそれまで築きあげて来た外国貿易における鈴木商店の地盤をみすみす三井や三菱に譲ってしまうことは見るに忍びず、また鈴木商店があらゆる商売を捨てて再起できないことは到底考えられず、加えて、それまでに散り散りに分散し、あるいは鈴木商店の整理業務のために残留したり海外支店の整理のために外国に留まっていた人々のためにも、彼らの能力を発揮できる新たな会社を創ろうと決意し立ち上がった。

新会社は、整理会社・株式会社鈴木商店から、鈴木商店直系の子会社で綿花、綿糸、布羊毛等を取り扱っていた「日本商業」に営業を移譲した上で独立させることとし、高畑と永井は、新会社「日商株式会社」の新たな出資者集めと、大口債権者からの協力を得るために奔走した。その結果昭和3(1928)年2月8日、鈴木商店の破綻からわずか300日余りで日商(後・日商岩井、現・双日)の創立総会が開かれ、わずか39名でのスタートを切った。

一方、金子直吉は「鈴木」の名を残した再出発を考えており、かつ貿易部門の日本商業だけを切り離しての再出発にはあくまでも反対であった。しかし、台湾銀行、横浜正金銀行など銀行団をはじめとする大口債権者は、新会社には鈴木商店の体質を持ち込まず、若手を中心とする再建を条件としていたため金子の参加は認められず、さすがの金子もこの方針に反対することはできなかった。

そこで、金子は昭和6(1931)年、前記マガディソーダ社の天然ソーダの輸入販売を目的として設立された太陽曹達を通じて再び事業経営に乗り出すこととなった。昭和6(1931)年、太陽曹達は持株会社に改組され、同社の定款の目的には「各種事業に対する投資」が追加され、同年9月に高畑誠一が代表取締役に就任すると、同時に金子直吉は相談役に就任した。時に、金子65歳であった。なお、昭和8(1933)年には定款の目的に「鉱業」が追加された。

その後、太陽曹達は旧鈴木系列企業の株を順次買い戻していったが、金子は昭和19(1944)年2月27日に77歳で亡くなるまで、鈴木商店再興の悲願成就のため、飽くなき事業の鬼として太陽産業本社(神戸市栄町通3丁目)の2階最奥の部屋を拠点として奮闘を続けた。

昭和14(1939)年9月1日、ドイツ軍がポーランドに侵攻すると、9月3日にはイギリスとフランスがドイツに宣戦布告した。第二次世界大戦の勃発である。この同じ年、太陽曹達株式会社は「太陽産業株式会社」へと社名を変更した。

金子が復活あるいは設立した企業は全盛時の鈴木商店とは比べるべくもないが、次に掲げる太陽産業の20有余の各社への広がりを見るにつけ、かつて「煙突男」と異名を付された金子の老いてなお盛んな事業意欲を窺うことができる。

当時の推進事業は、昭和30年以降の全盛期に「中小炭鉱の雄」と称された羽幌炭砿鉄道、ボルネオ島サラワク(現・マレーシアのサラワク州)でゴム栽培や石炭その他の事業を営んでいた日沙商会、各種ゴム製品を製造し大戦中に軍需会社の指定を受けて大きく成長した日本輪業ゴム(後・日輪ゴム工業、現・ニチリン)などであった。

晩年の金子が力を入れていたのが、アルミニウムの製造・製錬をするため神戸製鋼所、大日本塩業、太陽産業の3社の共同出資によって設立された東洋金属であった。後年、大川目おおかわめ鉱業所などの直営事業は分離・独立され、株式所有による間接経営へと移行していった。

■昭和15(1940)年頃の太陽産業の事業

直営事業
(鉱業)
モリブデン:大川目鉱業所(岩手県九戸郡大川目村、製錬所:兵庫県赤穂町)、金:大良鉱業所(鹿児島県姶良郡蒲生町、附属製錬所:同所)、銅:真金鉱山(山口県美弥郡真長田村)、八坂鉱山(山口県佐波郡八坂村)、青森鉱山(青森県下北郡大奥村)、水銀:日高鉱山(北海道日高国様似)、硫黄:万座鉱山(群馬県吾妻郡草津町、製錬所:同所)、黒煙:玉尚鉱山(朝鮮平安北道玉尚面)、鉛・亜鉛:儉徳鉱山(朝鮮咸鏡北道儉徳)、蝋石:鼎鉱山(朝鮮慶尚南道鼎冠面)

(研究事業)
東北チタン工業所(仙台市、鉱区所在地:福島県、宮城県、新潟県)、太陽産業科学研究所(国家総動員法ニ依ル研究命令 稀有金属)(兵庫県武庫郡本庄村青木)、日本蚕精絹糸研究所(再製絹糸)(静岡県鷲津町)

●直営会社
羽幌炭砿鉄道(目的:石炭並二鉄道運輸、本社:北海道羽幌町)、樺太ツンドラ工業(目的:ツンドラ製品、本社:樺太敷香町)、日沙商会(目的:英領ボルネオニ於ケルゴム栽培、石炭其他ノ諸事業、本社:神戸市)、日本輪業ゴム(目的:ゴム、人造樹脂工業並ニ航空機部分品、本社:神戸市)、東神興業(目的:工業用土地ノ埋築、土木、本社:神戸市)、半島土地建物(目的:土地建物ノ経営、本社:朝鮮羅津府)、帝国樟脳(目的:樟樹殖林、樟脳製造、本社:神戸市)、東産業(目的:事業投資、本社:神戸市)、鈴木薄荷(目的:薄荷製造、日本天然物ノ輸出、本社:神戸市)、東洋絹毛(目的:人絹、擬毛糸、本社:大阪府津田町)、興亜鉄工廠(目的:鉄工、機械、本社:大阪市)、伊予陶器(目的:輸出向陶器、耐火物製造、本社:愛媛県郡中町)、大成商事(目的:北海道ニ於ケル物産売買、本社:小樽市)、防石鉄道(目的:鉄道運輸、本社:山口県防府市)

●関係会社並ニ其傍系ノ会社
神戸製鋼所(目的:機械軍需品、本社:神戸市)、東洋金属(目的:アルミニューム並ニ金属、マグネシューム製造製錬、本社:鹿児島市)、大日本塩業(目的:製塩、本社:東京市)[傍系会社:朝鮮製塩工業、満州塩業、南日本化学、華中塩業、山東塩業、北洋塩業、南樺太塩業、新日本運輸、台湾製塩、東亜塩業]、関東州加里工業(目的:加里、臭素、塩化マグネシューム製造、本社:大連市)、日本樟脳(目的:樟脳製造、精製、樟樹殖林、本社:神戸市) [傍系会社:中華樟脳]、日商(目的:輸出入貿易、製造工業、本社:大阪市) [傍系会社:日商繊維工場、東洋フェルト、東洋機械製作所、日本発條、辰巳商事、大中華造紙廠、黄浦鉄廠]、米星産業(目的:葉煙草並ニ巻煙草製造、投資、本社:青島) [傍系会社:華北葉煙草、中支那葉煙草、協同煙草、国友鉄工所]、外ニ東洋ファイバー日本冶金日本香科薬品朝鮮物産

太陽曹達(後・太陽産業、現・太陽鉱工)の歴史③

  • 昭和2年4月2日付東京朝日新聞(夕刊)記事

    鈴木商店が台湾銀行から融資打切りの最後通告を受けたことを伝える。

  • ある日の金子直吉

    電話を前に食事のひととき(帽子の中には氷嚢が入っている)

  • 昭和12年頃の神戸市栄町通

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