太陽曹達(後・太陽産業、現・太陽鉱工)の歴史③
東北チタン鉱業所の買収とモリブデン工業化への胎動
太平洋戦終結後の昭和20(1945)年から昭和30(1955)年代前半にかけて、太陽鉱工(太陽産業の後身)の主力工場として稼働した仙台工場の前身である「仙台チタン工場」は昭和10(1935)年4月、佐々木正雄ほか数名の合資により、わが国初のフェロチタン(*1)の生産を目的として設立され、当初は「東北チタン鉱業所」と称していた。
(*1) チタンは元素記号Ti 原子番号22。主要な天然鉱物は チタン鉄鉱(イルメナイト)、金紅石(ルチル)。炭素鋼と同程度の強度を持ち、特に耐食性に優れ、熱伝導・熱膨張係数が小さい希少金属(レアメタル)。チタンは航空機、船舶などの構造材料、化学工業における耐食性容器材料などに使用される。フェロチタンは合金鉄(フェロアロイ)の一種で、鉄とチタンの合金。
当時、太陽産業科学研究所(兵庫県武庫郡本庄村青木)で希少金属(レアメタル)の研究に携わっていた柳田彦次所長(柳田富士松の次男)は、東北の地でチタンの生産に従事するこの工場に興味を抱くと、経営陣に諮り積極的に買収工作を進めた。その結果太陽曹達(後・太陽産業、現・太陽鉱工)は昭和12(1937)年12月、同工場を買収し、以後宮城、福島県下の海岸の3鉱区より採取したイルメナイトを主原料として低炭素フェロチタンの生産に従事することとなった。
時あたかも日中戦争の勃発(昭和12年7月)直後であったことから、仙台チタン工場は海軍の指定工場となり、以後終戦までフェロチタンの生産を継続した。この仙台チタン工場の歴史の中で、忘れてはならないのが東北大学金属材料研究所の存在である。戦前の日本において、金属研究のメッカが東北にあったことは、本田光太郎博士(*)によるKS鋼(焼入硬化型磁石鋼)の発明を通じて知られている。
(*)東京帝国大学物理学科卒業後、東北帝国大学教授、同大学金属材料研究所長、同大学総長、東京理科大学学長などを歴任。大正5(1916)年、タングステン鋼にコバルトを添加することにより、安価で耐性に優れた強力な磁石用合金(KS鋼)を発明。昭和8(1933)年、さらに強力なネオKS鋼を発明した。昭和12(1937)年、文化勲章受章。
仙台チタン工場のフェロチタンが後のネオKS鋼に採用されたことを契機に、東北大学金属材料研究所と仙台チタン工場の協力体制が深まり、戦後、同工場はフェロボロン、フェロチタンボロンなど新合金生産に際し同研究所の指導を受けるなど数多くの恩恵に浴することとなる。
昭和15(1940)年9月、日独伊三国同盟が締結され、以後わが国は太平洋戦争への道を突き進んでいった。その結果、あらゆる産業活動に対し国家の統制が強化され、国策・戦力増強に沿った事業でなければ許可も認可も困難な時代となった。
そんな状況下において、太陽産業は海軍当局からモリブデン(*5)開発の要請を受けた。モリブデンは第一次世界大戦中に兵器用タングステンの代替品として登場して以来、列強各国の注目を集めるところとなり、戦略金属として欠くことのできない重要金属とみされるようになっていた。わが国でも陸・海軍省が先頭に立って日本国内はもちろんのこと、朝鮮・満州にまでモリブデン鉱山開発の手を伸ばしていた。
(*5)元素記号MO 原子番号42。主な天然鉱物は輝水鉛鉱(モリブデナイト)、モリブデン鉛鉱。タングステンとともに高融点金属として知られる希少金属(レアメタル)。より硬く、打撃強度に優れ、変形しにくい性質を鉄に持たせることができ、さらに電気伝導性・熱伝導性にも優れ、線や板に加工することもできるといった特性も持つことから用途は広く、ビル・鉄橋・橋桁・鉄道車両・レール・自動車・航空機・船舶などの社会基盤を構成するもの、冷蔵庫・洗濯機などの家電製品、台所のシンク・スプーン・フォーク・包丁など、さらには電子管の陽極・グリッドおよび支持物・電気回路のコンタクト耐熱材料・高温部品・特殊合金・電熱線・コーティングその他に幅広く使用される。また、バナジウムともに石油精製時の脱硫(硫黄分・硫黄化合物を除去する)触媒、化学用添加剤としても使用される。
太陽産業は、まず大川目鉱山(岩手県九戸郡大川目村)の開発に着手し、「大川目鉱業所」を開設してモリブデンの鉱石である輝水鉛鉱(モリブデナイト)の採取にとりかかった。同時に輝水鉛鉱の焙焼とフェロモリブデン(*6)の製造のため昭和14(1939)年、「赤穂製鉄工場」(後・赤穂工場) [兵庫県] の建設に着手した。
(*6) フェロモリブデンは合金鉄(フェロアロイ)の一種で、鉄とモリブデンの合金。
戦後、太陽鉱工の主要鉱山となる「大東鉱山」(島根県大原郡大東町、現・島根県雲南市)の開発は昭和14(1939)年12月、谷治之助の名義でモリブデンの試掘権が設定されたときから始まる。また、昭和15(1940)年3月19日には赤穂製鉄工場が発足した。同工場の事業目的は酸化モリブデンおよびフェロモリブデンの製造であった。
昭和17(1942)年3月、それまで太陽産業の直営事業としてモリブデン鉱の採掘に当たっていた大川目鉱業所が太陽産業の子会社として独立し、「大川目鉱業株式会社」が設立された。役員は次のとおりであった。取締役会長 大塚藝(元・海軍技術中佐)、取締役社長 谷治之助、専務取締役 大森良三(元・海軍小佐)
大川目鉱業の設立に伴い、大東鉱山と赤穂製鉄工場は太陽産業から大川目鉱業に譲渡された。ここに、大東鉱山および大川目鉱山から採鉱された硫化モリブデンを赤穂製鉄工場で焙焼し、三酸化モリブデンを製造するという一貫体制の基礎が確立された。
昭和19(1944)年7月、大東鉱山は試掘権を採掘権に変更し本格的な採鉱を開始し、以後硫化モリブデン精鉱を月産3トン、軍の強い要請により増産した月で月産5トンを採鉱したといわれている。なお、赤穂製鉄工場で生産された三酸化モリブデンは全量が海軍省艦政本部に納入された。
昭和18(1943)年4月22日、太陽産業は新金属としてモナザイト、ジルコン(*)の工業開発と化学精錬のために設立した太陽産業科学研究所を「日本金属化学」として企業化した。代表取締役は柳田彦次で、同年11月には京都工場の建設に取りかかった。当時、同社は希土製品メーカーとしては神戸の三徳金属(現・三徳)と並んでわが国の草分け的存在であった。
(*)モナザイトはセリウム、ランタン、イットリウム、トリウムなどの希土類(レアアース)を含む燐酸塩鉱物。ジルコンは希少金属(レアメタル)であるジルコニウムのケイ酸塩鉱物。